地獄の門

 ある町に一人の泥棒が住んでいた。男は鍵開けの名人であり、この世の鍵という鍵は全て開けることができると豪語していた。実際新しい鍵ができれば、それを開けるためだけに泥棒に入ることもやっていた。警察に捕まることもなく、世間的には美術商として通っていた。
 男は現金よりも美術品に興味を持っていた。盗んだ絵画や像や宝石などを自分の館の地下に飾ってよなよな眺めては喜んでいた。また美術館などによく通い、欲しい絵画などを物色していた。
 ある日、上野の西洋近代美術館に行った。庭にロダンの彫刻がたくさん飾られてあった。とても大きいので、盗むことはできなかったが、その作品に強く魅了された。特に「地獄の門」は圧巻であった。その前に立ち、一時間以上隅から隅まで眺めていた。
 男はあることにふと気が付いた。小さな穴が門にあったのである。一見すると門の傷のように見えるが、これは鍵穴であると男は確信した。もっと側で確認したかったが、観客や警備員が近くにいたので、それはできなかった。男はこれを確認するために夜、忍び込もうと思った。また鍵穴であるなら、開けてみようと思った。まず男はどこから忍び込んだらよいか、美術館の隅から隅まで調べて回り、報知器や赤外線の位置などを確認した。
 三日後の深夜、男は万全の準備をして美術館の庭に忍び込んだ。大胆にも正門の鍵を開け、赤外線を上手く避け、地獄の門にたどり着いた。
 男は門にある小さな穴を覗き込んだ。やはりこれは鍵穴であった。男は鋭いピンをその穴に差し込んだ。今までとは全く異なる鍵であった。男は感覚を鋭く研ぎ澄まして、ピンに集中した。ピンの先がよく分からないあるものを外した時、ガチャリと小さな音がした。男は「やった」と感じた。
 次の瞬間、門に付いているいろいろな像がゆるやかに動きだした。空間が歪んだようにも感じた。すると門がゆっくりほんの少し開いた。その中から冷たい風が一瞬流れ出た。男は門に手を入れると力一杯開けようとした。しかしなかなかすぐには開かなかった。自分の体が入る位、何とか開けることができた。男は気を奮い立たせて、門の中に入って行った。
門の中も夜であった。空にはどんよりとした鈍い光を放つ満月があった。しかしよく見るといつも見る月ではなく、人間の泣き顔が映っていた。星は一つも見えなかった。一本の細い道が門から小高い丘に続いていた。道は絨毯のようなもので出来ていたが、灰色であった。道の両側に木が生えていたが、それぞれが彫刻のように見え、月の光に青白く輝いていた。男はその道をひたすら歩いて行った。
 丘の上には大きな館があった。しかし窓はどこにもなかった。門にはとても素晴らしい彫刻が彫り込まれてあった。また鍵穴があったが、男はピンを使って開けることができた。館の中に入ると、広くて長い廊下がずっと奥まで続いていた。廊下の所々に細工の凝らされたろうそく台があり、その上にろうそくが輝いていた。廊下の両脇にはドアがたくさんあった。ドアには文字らしきものが書かれてあったが、読むことはできなかった。ドアの一つを開けてみた。中はとても広く、無数の白いろうそくが遙か奥までずっと輝いていた。短いのもあれば、長くて太いのもあった。すぐ側に消えかかりそうな短いろうそくがあった。そのろうそくがふっと消えた。その瞬間、人間の悲鳴のような声が微かに聞こえた。
 次の部屋にも行ってみた。その部屋には黒いろうそくが 無数にあった。しかし白いろうそくとは異なり、ほとんど短いものばかりであった。ある一帯の黒いろうそくが一斉に消えた。人間のたくさんの悲鳴が響き渡った。これは生命のろうそくではないか。黒いろうそくは黒人のものではないかと思った。そんなことを考えていると、ふいに後ろに誰がいるような気がした。振り向くと一人の老人がろうそくを持って立っていた。老人は礼服を着て、真っ白い髪で白いあご髭が胸辺りまで伸びていた。
「お前は誰だ?」
 と男は訊ねた。
「そう言うお前さんこそ誰じゃね?わしはここの番人だがね」
 と老人は聞き返した。男は、怪しい者は自分であることに気が付いた。
「これは失礼しました。私は鍵開けの職人です。人間界では名人とも呼ばれています。大抵の鍵は開けることができます。それでここに来てしまいました。鍵のことで何か用があればお申しつけ下さい」
「そうかい。人間が来たのはひさしぶりじゃのう。昔ロダンとか言う青年がやって来たことがあったな」
「えっ、ロダンですか。・・・・・・そうですか。・・・・・・所でロダンはここに何しに来たんですか?」
「そうじゃな。この館の彫刻に興味があったようじゃのう。いろいろと熱心にデッサンしていったよ」
「へぇー、そうですか」
 そう言えば、館の門に彫られていた彫刻は、はロダンの作品に似ているような気がした。「ロダンはその後どうしました?」
「そうじゃのう。そのまま帰って行ったな。彫刻以外にはあまり興味はなかったようじゃの」
「そうですか。あのー、ちょいと訊きたいことがあるのですが、このろうそくは、もしかして命のろうそくですか?」
「ああ、そうじゃ」
「ついでに訊きたいのですが、私のろうそくはどんなでしょうか?」
「お前のかい。やはり見てみたいかい。ロダンもそうじゃったよ」
 そう言って老人は笑った。
「では見せてあげよう」
 老人は男をその部屋まで連れて行った。
「ほれ、あれがお前のろうそくじゃよ」
 老人が指さす方を見ると、炎は大きく輝いていたが、他と比べて短いろうそくがあった。「あれが私の命ですか」
 男は何とか長くできないものかと考えた。
「ほほほほほほ・・・・・・ 。やはり長くしたいかいのう」
 老人は男の心を読んでいる様だった。
「何とかなりませんかね」
「それはできんよ。人間の命は最初から定められているものなんじゃよ」
「どうしてもですか。こういうのはどうでしょう。長いろうそくの上に自分のろうそくを乗せると言うのはどうでしょう」
「どこに長いろうそくがあるんじゃ?」
「ええ、ありますよ。ほらほらここにもあそこにも」
 そう言って、燃えている大きなろうそくを何本か指さした。
「それは他の人の命ではないかのう」
「いいえ、自分の命にできますよ。だって私は今、ここにいるんですから」
 そう言うと、男は近くの大きなろうそくの炎を消そうとした。
「まてまて、強引な男じゃのう。・・・・・・分かった。ではお前に大きなろうそくを得るチャンスを与えよう」
 男は最初から他人の命を奪うつもりはなかった。老人の出方をうかがっていたのである。
「ではどんなチャンスですか?」
「そうじゃの。わしに付いて来るがよい」
 男は老人の後に従い、ある部屋に行った。部屋を開けると人間の苦しみの表情が彫られた大きな箱が一つあった。他には何もなかった。
「さて、お前は鍵開けの名人じゃったのう。この箱の中には大きなろうそくが一本入っておる。それをお前に与えよう。ただし鍵が開けられなければ駄目じゃがのう。どうじゃ、やって見るか」
「ええ、やってみましょう」
 男はピンを取り出し、鍵穴に差し込んだ。鍵穴の中に何かがうごめいていたが、男はするどくピンを、そのうごめく何かの急所らしき部分に突き刺した。すると「ガチャリ」と音がした。
「おう、開けてしまったようじゃのう。だがもう一つ言い忘れておったことがある。その中にはろうそく以外のものもあるのじゃ。それは何かはわしでも分からん。どうじゃそれでも箱を開けてみるかのう」
「ええ、開けますよ。何が出るか楽しみですね」
 男はゆっくりと箱を開けた。すると箱の中に無数の蠢く黒いものがあり、一斉に飛び出した。その黒い物体は部屋中をくるくると回っていたが、開いたままのドアから逃げ出して行った。箱の中には大きなろうそくが一本あった。男はそれを取り出した。
「今のは何だったのでしょう?」
 と男は老人に訊いた。
「おぬしにもその内、分かるじゃろうて」
 そう言うと老人は消えてしまった。男は自分のろうそくがある部屋に戻ると、まず自分のろうそくを持ち、大きなろうそくを自分のろうそくのあった場所に置いた。そして自分のろうそくをその上に乗っけた。するとその瞬間、全身に力がみなぎり、気分がすっきりとした。だが周囲の無数のろうそくがさっき見たより全体に短くなっているのに気が付いた。男はこの館から出ようと思い、部屋から廊下に出た。左右に廊下が続いていた。どっちが入り口か分からなくなってしまったが、右に向かった。理由は何もなかった。しばらく行くと廊下が行き止まりとなっており、出口らしきドアがあった。最初に入って来た場所とは違っていたが、そのドアをピンで開けた。ドアは比較的簡単に開いた。ドアの向こうには砂漠が広がっていた。また一本の道が彼方の黒雲のかたまりに続いていた。
 しばらく歩いて行くと黒いずきんを被った一人の婆さんが道の傍らに座っていた。
「こんにちは、婆さん」
 しかし婆さんは黙ったままであった。気味の悪い婆さんであったので、そのまま男は行こうとした。
「お待ちなさい」
「えっ、何かな?」
「わしはここで商売をしているんじゃが、これを買わないかい」
 そう言うと婆さんは一つの仮面を後ろから出した。その仮面は、顔の半分がピエロで後の半分が能面のように無表情であった。男はその仮面に多少の芸術性を感じたので、買うことにした。
「おいくらかな?」
「お金はいらないよ。これがなければこの先、前に進むことはできないよ。ヒッヒッヒッ・・・・・・」
 不気味な笑いであった。男は仮面を付けると顔にぴったりと貼り付いた。外そうとしたら、皮膚にくっついたようで剥がすことができなかった。
「お前さんにピッタリじゃよ」
 そう言うと婆さんは消えてしまった。
 再び仮面の男は歩き始めた。道の彼方の黒い雲のようなかたまりは、大きな森であった。道は森の中までずっと続いていた。森の中はしんと静まり返っていた。鳥もけものも全くいないようであった。しばらく行くと道の真ん中にまるいテーブルがあり、二つある椅子の一つに死神が座っていた。よく古い絵画などに死神の姿が描かれているが、それにそっくりであった。 死神は黒い布を着て大きな黒い三角の帽子を被っており、顔はよく見えなかった。また大きな鎌をテーブルに立てかけていた。死神は帽子ごと頭を首から外すとテーブルの上に置いた。そしてその頭は椅子に座るよう言った。男は静かに座った。
「では賭事をしよう」
と、テーブルの頭が仮面の男に言った。仮面の男は賭事は大好きであった。また多少の自信もあった。
「ええ、やってもよいですが、私には賭け金がありません」
「いいえ、お前の命を賭けるんだよ」
「私の命に見合うものを、死神殿は持っているのですか?」
「ここに百万の命がある」
 そう言うと、死神は懐より丸い水晶玉を差し出した。その中にはたくさんの人間が蠢いていた。
「私の命は百万の命に匹敵すると言うことですか?」
「いいや、一つの命は一つの命の価値しかないよ。でも今回は一つの命対百万の命の勝負をするつもりだよ」
 そう言うと、死神の頭はにたにた笑った。そしてこう訊いた。
「では、お前は何で勝負したい?」
「待って下さい。死神殿。この勝負の意味がまだよく分かりませんが・・・・・・」
「いいかい。お前が勝てば百万の命を救うことができる。ただしお前が負ければお前の命を貰うと言うことさ。そしてこの勝負を拒むことはできない。なぜなら、拒むとこの森から絶対抜け出ることができなくなるからね」
 仮面の男が周囲を見渡すと道は無くなっていた。テーブルの周囲に森が迫っていた。仮面の男は観念した。
「私はトランプゲームが好きです。ポーカーをしたいです」
「そうかい。それではポーカーをしようかい」
 そう言うと死神はテーブルの下からトランプを取り出した。
「待って下さい。そのカードにインチキがないか確かめさせて下さい」
 死神は、トランプを仮面の男に差し出した。仮面の男はそのトランプをひっくり返して調べた。何も異常はなかった。仮面の男はスペードのカードを一枚すばやく抜き取り、テーブルの下に隠した。そしてトランプを死神に返した。
「ええ、いいでしょう。ではやりましょう」
 死神はすばやくカードを切ると五枚のカードを配った。仮面の男のカードは三のワンペアであった。仮面の男は三枚のカードを交換した。すると一が二枚含まれていた。それで三と一のツーペアとなった。死神は仮面の男と同じく三枚のカードを交換した。
「死神殿のカードは何ですか?配った親から見せて下さい」
 死神はカードを見せた。十三のスリーカードであった。しかし死神がカードをテーブルの上に置いた瞬間、負けを確認した瞬間、仮面の男は一枚のカードをスペードとすばやく交換した。
「そうですか。私は一と三のフルハウスですよ。私の勝ちですな」
「ふふふふふ・・・・・・。それはおかしい。わしはスペードを持っている」
 そう言うと死神は、カードを指さした。三枚の十三のカードの隣にスペードが確かにあった。
「と言うことは、このカードがインチキだと言うことではないですか。このトランプは死神殿のものです。ですから、インチキをしたのは死神殿の方ではないですか。よってこの勝負は私の勝ちと言うことです」
 と仮面の男は言った。
「ふふふふふ・・・・・・」
 死神は不敵に笑った。そして水晶玉を手で握りつぶした。多くの悲鳴が森に木霊した。すると死神は消えてしまった。また一本道もすっと現れた。
 仮面の男はまた歩き始めた。歩きながら今の勝負のことについて考えていた。あの百万の命は一体何だったのだろう。また自分の命と百万の命とは、自分にとってどっちが大切なのだろう。・・・・・・なかなか結論が出なかった。
しばらく行くと森から抜け出すことができた。
森の次は草原が広がっていた。一本道はその中を遙か彼方まで続いていた。
しばらく行くと道の真ん中にドクロが転がっていた。近づくと仮面の男に話しかけてきた。
「おい、お前。何処へ行く?」
「何処にも行くあてはないけれど、ここを通りたい」
「なら、俺が出すクイズに答えろ。間違えたらこの道を通す訳にはいかないよ」
「ほう、・・・・・・どんなクイズだ?」
「では出そう。最初は四本足、次に二本足、次に三本足の生き物は何だ?」
 これは有名なクイズであり、答えは人間であると分かっていたが、何か罠があるような気もした。
「・・・・・・答えは、人間だ」
 と仮面の男は答えた。
「はははは・・・・・・。違うよ・・・・・・」
 とドクロが言った瞬間、仮面の男はドクロを踏み付けた。ドクロは粉々に潰れてしまった。そして仮面の男は再び歩き始めた。
 しばらく行くと、せせらぎの音が聞こえてきた。やはり川が流れていた。川幅は百メートルほどあったが、渦を巻きながら流れており、川底は深い感じがした。どうしようか迷っていると、一人の婆さんが姿を現した。
「おい、お前さん。舟で渡らんかね」
 と婆さんが仮面の男に言った。
「えっ!一体どこに舟があるのだ?」
「よく見てご覧。そこにあるじゃないか」
 婆さんが指さす暗闇の方を見ると一艘の舟が川べりにあった。
「舟賃はいくらかな?」
「お前の命、なんてことは言わないよ。今持っている物で命の次に大切なものでいいよ」 そう言われて仮面の男は考えんでしまった。ここまでやって来れたのは、鍵を開けることができたからである。と言うことは、鍵を開けることのできる細長いピンと言うことではないかと思った。でもこれからまだこのピンは、役に立ちそうに思った。
「なら、この万年筆かな。これには思い出が一杯詰まっているよ。これでいいかい」
「・・・・・・ああ、いいよ。では乗りなよ。ヒッヒッヒッヒッ・・・・・・」
 仮面の男は舟に乗った。婆さんは棒を川底に突いて舟を動かし始めた。棒が川底に届くと言うことは、大して深くはないなと思った。
 婆さんは川の真ん中まで行くと舟を止めてしまった。
「どうしてここで止めるのだ?」
「今、命の次に大切は物は、胸のピンではないのかね?」
「何故そんなことが言えるのだ」
「お前の考えていることは全てお見通しだよ。ヒッヒッヒッヒッ・・・・・・」
「では、このピンをやらないと舟は動かさないと言うことかな?」
「そうだね」
「なら、婆さんをここで殺してしまってもいいんだな。婆さんを殺して、舟を私が漕ぐこともできるけどね」
 そう言うと仮面の男は、婆さんを川に投げ込もうとした。
「ヒィー、止めておくれ。命だけは助けておくれ」
「なら、早く舟を漕ぎな。婆さん」
 婆さんはしぶしぶ舟を向こう岸まで漕いだ。仮面の男は舟から下りると約束の万年筆を婆さんに与えた。
「婆さん。あくどい真似は止めるんだな」
「そう言うお前こそ、ヒッヒッヒッヒッ・・・・・・」
 川を渡り、しばらく行くと大きな館があった。館からは楽しげな音楽が聴こえてきた。 館の入り口には正装をした男が立っていた。その男は仮面の男を見ると館のドアを開け、中に入るよう手で合図した。仮面の男が中に入ると大きなホールがあった。そこには仮面を被った多くの男女がいた。踊っている者もおれば、酒を飲んでいる者もいた。楽団が演奏していたが、みんな仮面を被っていた。ダンスパーティの様であった。
 一人の若い女が仮面の男に近づいて来た。そしてワイングラスを手渡した。それを一口飲むと快い気分になった。奥に行くとステージがあった。ダンスが一旦終了すると司会者が出て来た。
「これから人間のショーが始まります」
 そう言うと、司会者は仮面の男をステージに呼んだ。仮面の男はみんなに拍手されてステージに上がった。仮面の男が上がると脇から大きな箱が運ばれて来た。飾りは何もなく、鍵穴が一つ横に付いていた。これを開ければよいのだと思い、仮面の男はピンを取り出し、鍵穴に入れた。ホールにいる者たちは固唾を飲んで見つめていた。何度かカチャカチャしている内に「ガチャリ」と音がした。
「さあ、開いた様です。皆様ご覧下さい」
 と司会の男が言った。
 仮面の男はゆっくりと箱を開けた。中は真っ暗闇であった。すると箱の中から吸い込む風が起こり、ホールにいる仮面の人々が吸い込まれていった。悲鳴がホール一面に響き渡った。仮面の男は箱の直ぐ下にうずくまり、吸い込まれるのを免れることができた。そしてホールには自分以外誰もいなくなった。楽器やグラス、そして仮面が転がっていた。
 仮面の男は箱の中を覗き込んだ。すると箱の脇に縄梯子があり、それはずっと奥底の血の池まで続いていた。その池には多くの亡者が蠢いていた。亡者たちは縄梯子に気づくと叫びながら上り始めた。仮面の男はじっと見つめていたが、ふと気が付いた。このまま亡者がここに来たらどうなるのであろう。亡者は自分に何をするであろうか。そう考えると不安になり、箱をパタンと閉め、ピンで鍵を掛けた。するとまた静かなホールとなった。
 仮面の男は二階があることに気が付いた。階段を上ると部屋が三つあった。鍵は掛かっていなかった。最初の部屋のドアを開けると、たくさんの時計があった。それぞれがバラバラの時間を刻んでいた。奥にベットがあった。ベットの毛布の模様にも時計が描かれてあり、その模様の時計も時を刻んでいた。ベットを見たら眠気を感じたが、この部屋では眠れないなと思った。
 次の部屋に行った。その部屋は全てが黄色であり、奥にベットが一つあった。そのベットも黄色であった。他には何もなかった。この部屋でも眠れないなと思った。
 三番目の部屋に行った。自分の部屋とそっくりであった。否、自分の部屋であった。ベットの横には週刊誌と山になった灰皿と百円ライターがあった。ゴミ箱も満杯であった。仮面の男は一気に眠気を感じ、ベットに潜り込んだ。たが一つだけ違う所があった。それは天井が真っ暗であり、小さな目が一面に散らばっていた。気持ち悪く感じたが、眠気には逆らえなかった。そしてそのまま眠りについた。
 どれくらい眠ったかは分からなかったが、眼を覚ますと天井には目は無かった。また疲れもとれた様だった。ベットの脇の煙草を一本取り、仮面の口に入れて吸った。気分がすっきりした。そのまま煙草をポケットに入れ、部屋のドアに向かった。ドアを開けると一面の砂漠であり、一本の道がずっと彼方まで続いていた。まだ夜空であった。泣き顔の満月も輝いていた。
 しばらく行くと、また大きな館があった。ドアには鍵は掛かっていなかった。中に入るととてつもなく大きな図書館であった。本の棚がいくつも彼方まで続いていた。だが誰もそこにはいなかった。近くの棚から本を一冊取り出し、開くとそこには文字がぎっりしと書かれていたが、まったく読めなかった。
「お前は誰じゃ?」
 と仮面の男を呼ぶ声がした。後ろを振り向くと背筋のすっきりと伸びた髪の真っ白な老人が立っていた。
「私は、仮面の人間です」
 と仮面の男は答えた。
「そうか。仮面か・・・・・・」
「所で貴方は、何者ですか?」
「わしは、この図書館の管理人じゃよ」
「この図書館は何なのですか?」
「ここは、人間の歴史が書かれてある本の図書館なのじゃ」
「人間の歴史ですか。ひょっとして私の歴史もあると言うことですか?」
「そうじゃな。おぬしは命のろうそくをいじくった男であろう。先ほど棚からお前の歴史が落ちてしまったのう」
「えっ!?どこにあるのですか。私の歴史は?」
「ほれあそこじゃよ」
 老人が指さす方に一冊の本が床に落ちていた。仮面の男はその本の所に行き、拾い上げた。中を開いて見たが、やはり読めなかった。
「さて、この本を作り直さねばならぬのう」
 そう言うと老人は本を持って仮面の男を連れてある部屋に行った。部屋の中には机と椅子があり、ペンが置かれてあった。老人はその部屋に待つように仮面の男に言って、部屋を出て行った。しばらくして老人は戻ってきた。老人は別の本を持って来た。
「さて、おぬしの歴史は二巻にするかのう。この二巻目におぬしの歴史を書き込まねばならぬが・・・・・・」
「一体誰が書き込むのですか。貴方ですか?」
「こういうケースはめったに無いことじゃからのう。おぬし、自分で書き込んでみるかい?」
「えっ! 私が書いてもいいんですか?」
「まあ、いいじゃろう」
「どんな風に書けばいいんですか?」
「そうじゃな。長々と書く必要はないんじゃ。概略でいいんじゃ。そうすると自然に書き込まれるからのう。それから、おぬしの言葉で書けばいいんじゃよ」
「そうですか。では書き込ませていただきます」
 本を開くと中は真っ白だった。仮面の男はペンを持ち、しばらく考えたが、なかなかよい展開が浮かばなかった。今まで人生を振り返るということもなく成り行きまかせに生きてきたし、幸せという概念にもそれほど強い興味はなかった。そしてしばらく考え書き始めた。

『警察にも捕まることもなく、盗みの仕事も順調に行く。自分を縛る人間もおらず、好きな時に食べ、好きな時に眠ることができる。ほしいものは大抵手に入れることができる。世界一の大泥棒になれる・・・・・・ 』

 ここまで書いたが、後がどうしても思い浮かばなかった。しかしこんなもので佳いだろうと考え、ペンを置いた。すると白い部分に次々と文字が勝手に走り始めた。
「さて、二巻目と一巻目とを張り付けようかのう」
 老人はそう言うとノリを取り出し、二つの本をぺったりと貼り付けた。そしてその本を持って部屋を出て行った。しかしその後老人はついに部屋に帰って来なかった。心配になって仮面の男が部屋を出るとそこは図書館の外であった。また一本の道がずっと続いていた。
 しばらく行くと三本の道に分かれていた。その分岐点に美しい女が立っていた。紫のショールを被り、口元を隠し、占い師のように見えた。
 女は仮面の男にこう言った。
「ここは運命の道です。一つは天国、一つは地獄、一つは元の世界です。貴方の運命を決めます。しっかりと選びなさい」
 男は考えた。自分の命はまだまだある。また気楽なものである。結局、天国のような世界であろうと。どれを選んでもそうなるだろうと。
「では、地獄を選びましょうか」
 そう言って仮面の男は笑った。そして真ん中の道を選んだ。それを聞くと女は静かに闇に消えた。すると両側の二つの道も同時に消えてしまった。
 しばらく行くと最初に来た地獄の門に着いた。仮面の男は不安になった。もしかしたら元の世界を選んでしまったのではないと。すると顔がむずむずして仮面が二つに割れ、地面に落ちてしまった。
 男は門を静かに開けて、元の世界に戻った。そこは太陽が普通に輝く昼過ぎの世界であった。とても静かであった。ロダンの彫もそのままであった。外に出たが、誰もいなかった。上野駅にも全く人気はなかった。動物園にも行ったが、動物すらいなかった。
 男は不安になった。人間を一生懸命探したが、ついに見つけることができなかった。腹が減ったので、コンビニに入り、好きなだけ食べたが、誰にも文句言われることもなかった。世界は男のものであった。男の世界であった。男は、あの書き込みのことを思い出した。たしかにその通りである。この世界にどれくらい長生きするのだろうかと考えると、背筋に寒気が走った。

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