三億円当たった男
室木耕一は、コンピュータシステム関連の会社に勤めるサラリーマンである。年は四十三歳であるが、まだ係長代理である。同期入社の出世の早い同僚は、すでに部長や課長になっている。耕一は仕事においてはあまりパッとせず、会社では目立たぬ存在である。まだ窓際族とはいえないが、その予備軍である。家には妻と高校二年の一人息子がいる。耕一はこの頃、息子とほとんど話をしたことがない。息子の方が耕一を避けていた。
耕一には趣味らしき趣味はない。だが、年二回のボーナスの時にジャンボ宝くじを買っている。一回につき、一万二千円つぎ込んでいる。ボーナスの時には妻から小遣い以外に二万円貰うことになっている。一ヶ月の小遣いは三万円である。耕一にとって、この一万二千円は大きな金額である。
耕一は宝くじを買う時は、いっぺんにつぎ込むのではなく、三千円ずつ四回に分けて買うことにしていた。一回目は会社のある駅の近くの煙草屋から連番十枚、三千円買うのである。三年前に一億円が出た所である。次は三日後、地元の駅前の煙草屋からバラ十枚、三千円買うのである。そしてまた三日後デパートの地下にある宝くじ売場からバラ十枚、三千円買うのである。ここは二年前に二億円が出た所である。そして締め切り間近に、会社の近くの煙草屋の、時々販売機から煙草を買っている店屋で、連番十枚、三千円買うのである。
基本的にこの買い方を十年以上続けているが、仕事の忙しさから買う店屋の順番が変わることもある。今まで六等の三百円はともかくとして、最高五等の三千円が五回ばかり当たったことがある。耕一も一億二億が簡単に当たるとは思っていないが、当選番号発表の日まで多少なりとも夢を見ることができるのである。それが唯一の楽しみであった。
食事の時などに「三億円当たったら何を買う?」と買うたびに妻に話しかけるが、妻は真剣に受け答えすることはなく、早く食べなさいと最後には言われてしまう。高二の息子は普段からほとんど耕一と話すことはなかった。耕一は妻とは別室で寝ているが、耕一は眠りにつくまで当たったら何をするかを想像するのである。
(BMWの外車をまず買おう。それから外国へ旅行に行こう。地中海のイタリア、ギリシア辺りがいいな。軽井沢に別荘も買おう。夏休みをたっぷり取ってバカンスを楽しもう。仕事はどうしよう? やはり止めようか。好きなように人生後半を生きてみたいな。でもそういう訳にはいかないな。仕事を辞めたらただの遊び人になってしまうな・・・・・・)
などと想像しながら、眠ってしまうのである。
発表当日は、直ぐに家に帰り、インターネットで確認することにしている。まず、十枚あれば一枚は確実に当たっている六等の三百円から調べ、その次に五等、その次に一等二等三等四等の順である。そして大抵三百円が四枚、運がいい時は三千円が一枚当たることもあるのである。その繰り返しの十年間であった。
ある年のジャンボ宝くじでの出来事である。耕一はいつものようにインターネットで結果を調べようとした。いつものように六等から確認して、次に五等を確認しようとした時である。一等が「十六組」であった。耕一の十枚の連番が「十六組」であった。
(おや、珍しいこともあるんだな。一等と組が同じだぞ。これは初めてだな)
五等を確認することを止めて、一等を確認することにした。
(ええと、一等は十六組の七五六三七四か。俺のは、十六組の七五六・・・・だって!)
パソコンの画面と宝くじに目をやりながら、確認を続けたが、上三桁合っていたことで、胸がドキドキしてきた。
(さて、下三桁は・・・・・・、えええ!!!!!!!!!!!!!!!!!!)
合っているではないか! 一等二億円である。それと前後賞合わせて三億円である。耕一の胸は張り裂けんばかりに高鳴った。耕一は周囲を見渡した。耕一の部屋であり、もちろん誰もいなかった。時計を見ると午後十時二十五分である。耕一は大きくため息をつき、もう一度パソコンの画面を確認した。やはり間違いなかった。一等前後賞合わせて三億円である。体の力が抜けていき、反対に快感が全体に広がっていく感じがした。耕一はベットに大の字に寝転び、ずっと天井を眺めていた・・・・・・。
どれくら時間が経ったであろう。時計を見ると午前一時である。パソコンの画面はついたままだった。再び確認をした。やはり間違いなかった。耕一は当たった三枚の宝くじを抜き取ると机の引き出しに入れ、鍵をかけた。鍵をかけることは初めてである。その夜はついに眠ることができなかった。
次の日、いつものように振る舞おうとした。妻と子には宝くじが当たったことは、今日一日だけ秘密にすることにした。食事の時に新聞を見た。やはり、一等は「十六組の七五六三七四」である。絶対間違いはなかった。
「どう、宝くじ当たった?」
妻が突然尋ねた。耕一はギクリとした。しかしバレないように落ち着いて、
「うーん、ダメだね。三百円しか当たっていない様だな」と答えた。
「そうでしょ。いつもと同じ結果ね。少しは百万円くらい当たってご覧なさいよ」
と言って、妻はいつものように鼻で笑った。
その態度を見て、耕一は宝くじに当たったことをずっと秘密にすることに決めた。食事はいつものマーガリンを塗った食パンであるが、味はよく分からなかった。
いつものように会社に出かけた。いつものように仕事をしようと思うのだが、宝くじのことが頭を離れなかった。
「室木くん、何をぼっとしているのかね。所で書類はできたかね?」
と課長の佐伯が言った。耕一の一年後輩である。それほど嫌みのない人物ではあるが、耕一を軽く見ていた。
「は、はい。もうすぐできます。急いで作成します」
「そうかね。今日中に仕上げてもらわないと困るよ」
そう言われて、耕一はしっかり仕事をしなければならないと思い、書類作りに集中した。なんとか五時までに仕上げることが出来た。
「課長、今日はこれで失礼します」
「えっ! 今日は早いな」
「ええ、ちょいとした用がありますので・・・・・・」
耕一は急いで家に帰ることにした。宝くじが心配であった。耕作は電車で通勤していた。会社から駅までが歩いて十五分、電車に乗って家のある駅までが四十五分、それから家まで十分である。合計七十分かかった。電車の中で揺られながら何に使おうか考えたが、まだ現実感が湧いてこなかった。
家に着くと、
「おや、今日は早いのね。夕ご飯、まだできてないわよ」と妻が面倒くさそうに言った。
「ああ、今夜はいらない。お腹が空かないんだ」
そう言うと耕一は自分の部屋に入った。耕作は当たった宝くじを机の中から出し、まじまじと眺めた。裏を見ると、名前と住所を書く欄があった。耕作はボールペンでゆっくりと間違わないように書き込んだ。そして最後に室木の印を押した。
(これで三億円の受け取り人は、この俺だ!)
受け取り開始は発表があってから一週間後からだった。さて、どのようにして三億円を受け取るのだろう? 支払い銀行は「みずなみ銀行」とあった。これは都市銀行であり、耕一の町には無かった。会社の近くに支店はあるが、そこからは下ろしたくはなかった。人目に付くことはどうしても避けたかった。それで会社とは反対の方向にある町の銀行で下ろすことにした。
一週間、いつもの態度で過ごすことは大変だった。パソコンで書類を作っている時、ニタリニタリと笑ったりすることもあった。
「室木さん、何かいいことあったんですか?」
と尋ねるカンの鋭い後輩もいたが、多くは耕一の心の変化に気付いてはいなかった。
一週間後、会社に風邪を引いたと連絡を入れ、妻には何も言わず、会社へ出かける振りをした。いつもは定期で改札口を通るのであるが、その日は切符を買い、いつもとは反対の上りのプラットフォームに行った。丁度向かい側がいつも耕一がいる下りのプラットフォームである。そこにはいつもの人達が並んでいた。直接話したことはないが、よく見知っているサラリーマンやOL、高校生ばかりである。耕一は彼らに見つからないように、やや離れた場所に行き、自分がいつも立っている場所をそっと眺めた。
(今日もあの場所に立つ筈だったが、今の俺は違う場所に立っている。今の俺は、別の世界にいるのだな・・・・・・)
耕一は何か不思議な気がしてきた。自分は神によって選ばれた人間ではないのか、そう思うとつい笑みがこぼれてしまった。
電車に二十分ほど乗り、目的の駅で降りた。駅前から十分ほどバスに乗り、降りた所からすぐそこにみずなみ銀行があった。大きな銀行である。最初入るのに躊躇したが、入ると多くの人達が待合室で待っていた。どうすればいいのか分からなかったので、受付の若い女性に聞いてみた。
「あのう、宝くじはどうすれば金に換えられるのでしょうか?」
他の人たちに聞こえないようにそっと尋ねた。
「ああ、宝くじの換金ですね。順番を待って下さい。この機械で順番札を引いて下さい」
と何事もないように言った。
札を引くと十番だった。耕一の前に九人の人がいるということである。その人達は普通の引き下ろしなのであろう。前の人達が次々に用を済ませるのをじっと眺めていた。心の中はドキドキしていた。どうやってこの窓口で現金を貰うのであろうか、それとも別の部屋に通されるのであろうか、などと考えていた。
ついに耕一の番になった。
「十番の方どうぞ」
そう言われて耕一は静かに立って、受付に行った。
「どんなご用ですか? 預金ですか、それとも引き下ろしですか?」
「あのう、宝くじに当たったんですが・・・・・・」と小さな声で言った。
「ああ、そうですか。どれくらいでしょう?」
「三億です」とても小さな声で言った。
「えっ? よく聞こえませんが・・・・・・」
「三億円です」とやや小さな声で言って、指を三本立てた。
「・・・・・・ああそうですか。では、その宝くじをお見せ下さい」
耕一は三枚の宝くじを見せた。しばらくその受付嬢は見ていたが、
「・・・・・・はい、分かりました。しばらくお待ち下さい」
と言うと、受付嬢は奥に行って上司らしき人物と相談していた。そしてその上司らしき中年の男性がやって来て、
「では、こちらの部屋へおこし下さい」と言った。
脇の通路を通り、控室に通された。お茶が出された後、しばらく誰も来なかった。十分ほどして先ほどの中年の男性がやって来た。副支店長ということであった。
「お客様、確かに当選しております。おめでとうございます。ではお客様のご確認をしたいと存じます。何か証明書はございますでしょうか?」
バカていねいな物言いだった。
運転免許証を差し出し、確認を受けた。
「まちがいございません。では宝くじ預り証をお渡し致します」
「えっ? すぐには貰えないのですか?」
「ええ、三億ともなりますと、なかなかそう簡単には揃いません。また、この宝くじが間違いないというご確認もしなければなりませんので・・・・・・」
「どれくらい待つのですか?」
「ええ、一週間ほどお待ち下さい」
そう言われて気が抜けてしまった。勇一は銀行を出た。時計を見ると十一時近くである。どこに行くあてもなく、ふらふらと街を歩いた。路地の中に入ると、丁度レストランがあった。高級そうな店である。財布には一万五千円あった。いつもは五百円のランチで済ましていたが、この店に入ることにした。メニューを見ると最低が千円のスパゲティである。ついそれを注文した。美味しい味であるが、食った気がしなかった。それを食べ終わるとすぐにレストランを出た。どこに行くあてもなかったが、再びふらふらと街を歩いた。
歩いてる時に、ふと、昔の記憶がよみがえった。
(そうだ! あそこへ行ってみよう)
高校生の時、初めてつき合った女性と遊園地でデートしたことがある。そこで最初に乗った観覧車を思い出した。バスに二十分ほど乗り、遊園地前に降りた。昔より遊具の数が増えていた。中へ入ると、閑散としていた。耕一のような中年男はほとんどおらず、アベックの二人連れが目立った。勇一は真っ直ぐ観覧車に向かい、待つこともなく直ぐに乗れた。ゆっくりと観覧車は上り、町並が見えてきた。何か懐かしい気持ちになった。こんな気持ちは久しぶりである。
(あの初恋の女性は今、何をしているのだろう。恐らく自分のことは忘れているだろうな。自分も今まで忘れていたのだからな・・・・・・)
耕一は、昔の思い出に浸りながら、今までの人生を振り返っていた。今の妻とは社会に出てから知人の紹介で見合い結婚したが、それほど好きという訳ではなかった。嫌いではないという理由で結婚したようなものである。人生において、ときめいたということがないように思えた。ときめきといえば今回の出来事が一番のときめきである。宝くじに当たって人生が狂ったという話はよく聞いている。だが耕一は自分だけは違う、狂わせるようなバカなことはしないぞ、と思うのであった・・・・・・。
観覧車を降りてから、遊園地のベンチに座り、パンを食べながらしばらくぼおっとしていた。ふと右の方を見ると、「迷路の道」というアトラクションがあった。興味が湧き、入ってみることにした。中に入ると何人かのアベックとすれ違ったが、とても楽しそうである。耕一は出口を探したが、なかなか見つからなかった。しかしそれでいいと思った。時間つぶしの必要もあった。このまま帰ることはできないのである。途中の休憩所で休み、ゆったりとした時間の流れに身を任せていた。結局、出口が見つかるまで二時間以上要した。
遊園地を出てから近くの海岸に行くことにした。歩いて三十分ばかりの所である。海岸には海水客がまばらにいた。耕一の背広を着た格好が、この場に相応しくないことが直ぐに分かった。そう言えば家族で海水浴に来たのは息子が小学生の時以来、ずっとなかった。あの頃はまだ良かったな、父親としての存在がまだ認知されていたように思えた。
耕一は海岸にしばらくぶらぶらしてから、バスで駅に戻った。まだ帰るには時間があったので、パチンコ屋で時間を過ごすことにした。昔のパチンコは好きであったが、現在のパチンコはあまり好きではない。博打性が強く、負ける時は一気に金が無くなってしまう。昔のようにチューリップが呑気に開く台が懐かしく感じた。五千円ばかり負けてしまった。
そろそろ帰宅時間となったので、帰ることにした。家に着いたのは七時近くであった。妻は耕一が会社をずる休みしたことには、全く気がつかない様である。耕一はいつものように行動し、いつものように自分の部屋に閉じこもった。夜遅くまで宝くじ預かり証をまじまじと眺めながら、ニタニタしていた。眺めるだけで楽しかった。
一週間をいつものように仕事して、いつものように帰宅して、いつものように部屋に閉じこもった。誰も耕一の心の変化には気づかなかった。再びみずなみ銀行へ行くために会社へ病気だと連絡し、また、妻に気づかれないように、空のボストンバックを畳んで紙袋に入れ、会社へ出かける振りをした。妻は何も気づかなかった。耕一には何の興味も無い様である。少しでも愛が残っておれば、夫の心の変化に気づくのではないかと思ったが、夫婦は所詮他人の始まりか、と思う耕一であった。
さて、耕一は一週間前と同じようにみずなみ銀行へ出かけ、番号札を受け取り、自分の番が来るのを待っていた。不思議と前回よりも緊張しなかった。番号が呼ばれて、受付嬢に宝くじ預かり証を示した。すると受付嬢は、「こちらへどうぞ」と別の部屋に通された。しばらく待っていると、あの時の副支店長が入ってきた。
「室木耕一さん、おめでとうこざいます」とていねいに挨拶した。
「ありがとうこざいます」
「では、手続きを致したいと存知ます。三億円をこの場で受け取ることもできます。ですが、今までの宝くじに当たった方々で全てお持ち帰りする方はほとんどおりません」
「えっ? では、みんなどうするのですか?」
「はい、当銀行に一旦預けておく方が多いです。しかし、その内いくらかはその日に下ろしている様ですが・・・・・・」
「そうですか・・・・・・。では、私も一旦預けておきます」
「ありがとうございます。全てでしょうか、それともおいくらか・・・・・・?」
「そうだな。百万、いや、一千万下ろします」と言って指を一本立てた。
「・・・・・・はい、分かりました。すぐにご用意いたします。ではこの用紙にお名前と住所、それにご印鑑を押して下さい」
副支店長はその用紙を確認すると部屋を出て行った。
しばらくしてから、副支店長は耕一名義の預金通帳と印鑑と一千万円を持ってきた。
通帳を開くと、二億九千万円が記載されていた。数えると桁は確かに九つである。
「カードはどうしますか、お作り致しましょうか?」
「ええ、えっ? いや、結構です」
カードは便利であるが、下ろすときはいちいち銀行に来るようにしようと思った。決して好き勝手にお金は使わないようにしようと決めた。
通帳を胸の裏ポケットに入れ、印鑑を背広の右ポケットに入れ、一千万円を空のボストンバックに入れた。入れてもぶかぶかだった。持ってきた紙袋を膨らまし、それもバックの中に入れた。バックは少し膨らんで見えた。
「では、お気をつけてお帰り下さい。ご心配でしたら、裏口から出られてもかまいませんよ」
「ええ、裏口から出たいと思います」
耕一は副支店長に案内されて裏口から外へ出た。人通りは少なかった。
(さて、何処へ行こう・・・・・・)
耕一はあれも買おう、これも買おうと考えていたが、実際大金を持つと何をすべきか、何を買うべきか迷った。
(そうだ! まず、あれを買おう!)
耕一はデパートの文房具売場に行き、小遣い帳を買った。三億円の最初の買い物である。現金の出入りはしっかり付けようと思った。無駄な買い物は不審を招き、周囲にバレてしまうからである。
(三億円の小遣い帳か・・・・・・)
つい可笑しくなり、笑ってしまった。ボストンバックの中に手を入れ、百万の封を切り、一万円出した。小遣い帳は五百五十円した。結構高級品である。お釣りはボストンバックの中に投げ込んだ。
支払い・・・・・・・・・五百五十円
残高 ・・・・・・・・・二億九千九百九十九万九千四百五十円
耕一は腹が減ったので、何か食べようと思い、地下の食堂街に行った。いろんな食事処が並んでいたが、なかなか決められなかった。歩きながら、ふと、食べたいものが頭に浮かんだ。ハンバーガーである。それもマクドナルドの、である。十年ほど昔、食べたことがあるが、それ以来食べたことはなかった。昼時など、店の中は若者で一杯である。その雰囲気に気後れしてしまい、食べてみたいと思っても、なかなか中に入れなかった。
耕一は、入口から中を覗くとやはり若者で一杯である。だが、入ってみることにした。 ハンバーガーの一覧表が並んでいたが、どれにするかなかなか決められなかった。耕一の番になり、
「お客様、何になさいますか?」と担当の女性に尋ねられた。
「えーと、あれ下さい」と言って看板の一覧の見本の写真を指差した。
「ああ、照り焼きセットですね。ここでお食べになりますか?」
「えっ! いや、持ち帰ります」
周囲は若者だらけである。この場所で食べる勇気は無かった。勘定は五百三十円であった。ボストンバックから一万円を取り出して支払った。
支払い・・・・・・・・・五百三十円
残高 ・・・・・・・・・二億九千九百九十九万八千九百二十円
ハンバーガーセットの入った袋を持って公園のベンチに行った。昼時なのでベンチは空いていなかった。耕一は噴水の縁に座ってハンバーガーを食べた。昔よりも美味しく感じた。袋をゴミ箱に捨て、しばらく町を歩いた。宝くじが当たったら外車を買おうとか、ヨットとか、別荘とか、高級ゴルフセットとか買おうと思っていたが、全て人目につく物ばかりである。宝くじに当たったことは絶対秘密にしなければならない。そうなると買えるものは限られてくるのである。高級時計にしても買えるものではなかった。恐らく誰かがそれに気づくであろう。そう考えると一体何を買えばいいのか分からなくなった。目立たないということは大変なことであることが分かってきた。以前はそんなことを考えることもなく、目立つこともなかった。だが、一度は人知れず目立ってみたい、と考えた。
(そうだ!)
耕一は、ある一つのひらめきが浮かんだ。耕一はデパートに戻り、黒のサングラスと中年がよく被る目立たないグレーの帽子を買った。二つ合わせて、一万五千六百三十円であった。
支払い・・・・・・・・・一万五千六百三十円
残高 ・・・・・・・・・二億九千九百九十八万三千二百九十円
サングラスと帽子を被り、鏡を見ると、耕一であることはすぐには分からないであろう。だが、怪しさがぷんぷんと漂っていた。サングラスが良くないと思った。
耕一はサングラスを外すとデパートの屋上に行こうとした。だが、屋上は立ち入り禁止となっていた。それを無視して屋上に上ると、植木がたくさん置かれてあった。周囲には誰もいなかった。屋上の低い金網から外を眺めると、都会のいつもの営みがあった。小走りに歩くサラリーマンやOL、髪を染めた若者たち、忙しそうに走る車、平凡な、いつもの日常である。耕一は、ボストンバックから百万円の束を取り出し、封を切った。
(これをこの場所からばらまくと気持ちがいいだろうな・・・・・・)
恐らくこの日常の営みは、いっぺんに変わるであろう。札束を必死で奪い合うだろう。その様子を想像するだけでも楽しかった。だが、手に持ったままどうしてもばらまくことができなかった。これは一種の犯罪ではないかと思った。もしばらまいた結果、下で交通事故が起きたら、どうなるのだろう。死亡者が出たらどうなるのだろう。また、事故が起こらないとしても捕まったらどうなるのであろう。新聞に出るであろう。そうすればマスコミがおもしろ可笑しく伝えるであろう。そして全てがバレてしまう。バレたら一体どんなことになるであろう? そんなことを考えると、とても心配になった。耕一は小心者である。また善良なる市民である。とてもできないと思った。
ちょうどその時、誰かがやってきた。デパートの従業員の様である。耕一は札束をバックにさっと隠した。そしてそそくさとその場を去った。会社が終わる時間まで、街をふらふらと歩いた。そしていつもの時間に家に帰った。いつものように妻に接し、いつものように部屋に閉じこもった。
耕一はバックから金を取り出し、机の上に置いた。そして通帳と印鑑も置いた。しばらくそれらを眺めていた。このままでは好きなように使うことはできないと思った。
(そうだ! マンションの一室を買おう!)
そこに買ったものを置いておくことにしよう。子供の頃、作ったことのある「秘密基地」を持とうと決めた。都会の中の秘密基地である。我ながら良い考えだと思った。そして現金と通帳と印鑑を引き出しの中にしまい込んで、鍵をかけ、寝ることにした。疲れる一日だった。
耕一は、月曜から金曜日まで普通の態度で過ごした。
土曜日、耕一は妻にゴルフに出かけると言って、家を出た。車にゴルフ道具を入れて、耕一が住んでいる町を離れ、幾つかの不動産屋を回り、マンションを物色した。不動産屋には、コンピュータソフト会社の社長というふれ込みで通した。だが、名前は本名を使った。後で問題が起こらないようにということである。そして最後の安田不動産が紹介してくれた十階建てのマンションの最上階にある五LDKの部屋に決めた。
「室木社長、マンションは建てたばかりですし、眺めも最高です」
と安田不動産社長は説明した。
「ええ、この部屋に決めたいと思います。処で値段はどれくらいです?」
と耕一は言った。
「ええ、バブルの頃ですと、一億近くの値段がついたのでしょうが、不況の今ですから、税金を含め、四千五百三十万円で如何でしょう」
「・・・・・・ええ、いいでしょう。そんなものでしょう」
「ありがとうございます。ではお支払いは如何いたしましょう?」
「現金一括払いでお願いします」
「えっ! ありがとうございます。それはとても助かります。さすがはコンピュータ会社の社長さんですね」
安田社長はにんまりと笑った。彼は耕一よりやや年上であり、格幅が良く、頭の髪が少し薄く、社長らしい雰囲気を漂わせていた。
「契約は午後からにしましょう。現金を事務所の方に持っていきますよ」
「えっ! 今日ですか! 益々ありがとうございます」と言って、何度も頭を下げた。
耕一は、みずなみ銀行に電話を掛け、現金を下ろしたいとことを告げ、しばらくしてから車で銀行へ行き、四千五百三十万円下ろした。そしてそのまま、不動産屋に行った。
現金をテーブルに置き、契約書にサインした。あっさりとしたものだった。
支払い・・・・・・・・・四千五百三十万円
残高 ・・・・・・・・・二億五千四百六十八万三千二百九十円
「いつからあのマンションを使用できますか?」と耕一が尋ねた。
「ええ、今から結構です。鍵をお渡し致します」と安田社長が答えた。
耕一は鍵を受け取り、去ろうとした時、
「室木社長、ちょっとお待ち下さい。お買い上げいただきましたサービスとして、これを差し上げます」
そう言うと、安田社長は一枚の券を差し出した。
「これはキャバレーの招待券です。実は、私はこういうお店もやっているのでございます」
券には、これを持っていくと三万円まで無料で飲め、期限は一年間とあり、店の名前は、「シュブール」と書いてあった。安田は券の裏に室木の名前を書いて渡した。
「ああ、ありがとうございます。今度行ってみることにしますよ」
「ええ、マダムにはよくサービスするよう伝えておきます。それから、この券は室木社長しか使えませんので、宜しく・・・・・・」
耕一はマンションに寄らず帰ることにした。少し時間がかかりすぎたからである。
家に帰ると、妻は遅いことに文句を言った。上役とのつき合いでしかたないと言ったら簡単に信用してくれた。夫の行動にはあまり興味はない様である。
夜、自分の部屋でマンションに何を買い揃えるかを考えた。机やタンスなどの家具用品一式、台所用品、カーペット、カーテン、背広や下着などの衣服、寝具用品一式、テレビや冷蔵庫、パソコンなどの電化製品一式、風呂用品一式などを細かくノートに記載した。
翌日、大学時代の友人と久しぶりに逢うことになっていると妻に言ったら、「そう」と言うだけである。夫の行動に興味を示さない妻というのは、とても助かると思った。
耕一は、最初の日に、銀行で下ろしたお金の中から五百万円をカバンに入れ、まず、家具用品専門店に出かけた。そこで計画表にそって次々とタンスや机などの家具用品を買い揃えた。じっくりと選ぶことはなく、高級品を中心に次々と購入した。家具屋の社長はとても喜んでいた。配達まで五日かかるということだが、午後に納入してくれれば、即金プラス五万円支払うと言ったら、直ぐに了解した。費用は全部で二百五十五万四千二百円かかった。
次に電化製品を買いに専門店へ出かけた。そこでも高級品を中心に買い揃えた。配達に二三日かかるということであったが、即金プラス五万円支払うということで、ここも午後からの配達を了解してくれた。費用は全部で百二十五万四千六百円かかった。
支払い・・・・・・・・・三百八十万八千八百円
残高 ・・・・・・・・・二億五千八十七万四千四百九十円
午後から家具と電化製品が配達され、それぞれの部屋に置いてもらった。机の上にパソコンを置き、初期設定を行った。またブロバイザーと契約し、インターネットが見られるようにした。コンピュータ会社に勤めているので、パソコンはお手の物だった。時間を見ると既に五時近くであったので、家に電話し、直ぐに帰ると妻に伝えた。
家に帰ると、妻が珍しく大学の友人がどんな人たちかいろいろと尋ねてきた。適当に答えておいたが、やや不意をつかれた感じだった。何とかごまかすことができたが、今度から嘘をよく考えておかねばならないと思った。つまらない所からボロが出るものである。この秘密は絶対に知られてはならない。行動は慎重に振る舞わなければならないと思った。
その夜、どうすれば怪しまれないように休日に外出できるのか考えた。ゴルフは金がかかり過ぎて、毎週ゴルフでは妻に怪しまれるであろう。いろいろと考えた末、昔好きだった釣りを趣味にすることにした。釣りはそれほど金のかかる趣味ではなく、妻も了解するであろう。
早速、妻に提案した。
「実は、大学の友人の早坂から釣りをしないかと誘われているんだ。ゴルフは止めるから釣りをやってもいいかい。金もゴルフほどかからないしね・・・・・・」
「ゴルフを止めるんなら、いいわよ。でも自分の小遣いから釣り道具を揃えてね。こっちは余裕なんか無いんだから・・・・・・」
「ああ、いいよ。早坂がいくつか釣り竿を持っているそうだから、古いのを呉れると言っていたよ。晩のおかずになるくらい釣ってくるさ」
次の土曜日、早速、車で釣りに出かけた。妻に怪しまれない為には、どんな場所で釣りをしているのかよく調べておかなければならないと思った。東港に行ってみたが、何十人もの人達が釣りをしていた。アジやキスなどが釣れていた。それを眺めていると耕一は子供の頃のことを思い出して、釣りをしてみたくなった。それで近くの釣具店に行き、釣り具セットを買った。妻が見るかも知れないので、比較的安いものにした。値段は餌を含め、八千五百四十円だった。
支払い・・・・・・・・・八千五百四十円
残高 ・・・・・・・・・二億五千八十六万五千九百五十円
一時間ばかりサビキ釣りをした。小さな十センチほどのアジが五匹釣れた。これを持ってマンションに行き、直ぐに冷蔵庫に入れた。それから耕一は台所用品や日用品などを買いに専門店に出かけた。車に詰め込んだが、ぎゅうぎゅうになってしまい、車も大型車を買わなければならないと思った。費用として、二十一万四千七百円かかった。
支払い・・・・・・・・・二十一万四千七百円
残高 ・・・・・・・・・二億五千六十五万一千二百五十円
一通り片づけてから家に帰った。妻に魚を見せると「たったこれっぽっち」と言って笑った。しかし魚釣りをしていたことは信じてくれた。これはいい趣味である。
一週間後の土曜日も釣りに行くことにした。今度は魚ではなく車を釣りに、である。最初、外車にしようと思ったが、それではやはり目立ち過ぎるので、国産の高級車の中古にすることにした。中古にしたのは新車だと納入に時間がかかると言われたからである。二百六十二万七千円要した。マンションの駐車場に入れておいた。この車に乗る時はサングラスをかけることにした。
支払い・・・・・・・・・二百六十二万七千円
残高 ・・・・・・・・・二億四千八百二万四千二百五十円
家に帰る前に魚屋に寄り、小ぶりのアジを八匹買って帰った。妻はそれを焼き、晩のおかずにしてくれた。やはりこれはとてもいい趣味である。アジの費用は普段の小遣いから出した。
その後、耕一は休みの度にマンションに出かけ、部屋の整理を行った。服も少しずつ揃えていった。衣服代として、二十五万五千六百円要した。この部屋だけで十分生活ができる状態になった。
支払い・・・・・・・・・二十五万五千六百円
残高 ・・・・・・・・・二億四千七百七十六万八千六百五十円
一通りマンションの整理が終了し、ゆったりとソファーに座って居間を眺めると何か足りない気がした。
(そうだ! 絵画だ!)
金持ちの屋敷には絵画が必ずといっていいほどあるが、ここにはそれがない。家の居間にも日本画が飾られてあるが、宮本武蔵の絵のコピー品でしかない。本物の絵画をマンションに飾ろうと思った。
耕一は昔から絵画には興味はあった。しかし金が無いので、名画の作品集で我慢していた。独身時代は美術館巡りをすることもあったが、妻は全く興味が無いので、結婚してからは美術館に出かけることはほとんど無かった。
耕一は、何軒かの画廊を訪れた。しかし、気に入った絵はなかった。ある画廊で、「新進気鋭作家展」という催し物があるという情報を得た。耕一はその展覧会に行ってみることにした。それは大きなビルの二階で行われていた。何人かの作家らしき若い人物がやや緊張した様子で立っていた。何を表現しているのかよく分からない作品もあったが、若いエネルギーがみなぎる作品が多いように感じた。耕一はある一枚の絵の前に立った。題名は「踊る鯉幟」といい、三十号のその絵は不思議な感覚の絵であった。色彩はとても華やかに感じられた。鮮やかな色彩の鯉幟が生きているように描かれており、三日月の太陽が空に輝き、犬小屋の様な建物から鯉幟が伸びているのである。ドクロのバイオリン弾きが音符をまき散らかし、これがシュール絵画なのかと思った。じっとその場に立ってその絵を見ているとその作家らしい若者が話しかけてきた。髪を伸ばし、身なりは芸術風であるが、どこか貧しそうに見えた。
「お客さん、この絵を見てどう思いますか?」と若い画家が尋ねた。
「おもしろいですね。でも、売れるんですか?」
そう耕一が答えると若い作家はやや眉をゆがめて、
「売れません」と、きっぱり言って笑った。
その態度がおもしろく、潔かった。耕一はこの若者と絵が気に入った。絵についてしばらく雑談した後、
「おいくらなんですか?」と耕一はやんわり切り出した。
「えー、三十、いや二十万では如何です?」と若者は少し自信なさそうに言った。
「結構です」
「やはりダメですか・・・・・・」と残念そうに呟いた。
耕一は財布から二十万出すと、その場で若者に手渡した。若者は初めて売れたと言って、とても喜んでいた。才能があるかどうかは分からないが、夢のある貧しい若者が喜ぶ姿はなかなかいいものである。
支払い・・・・・・・・・二十万円
残高 ・・・・・・・・・二億四千七百五十六万八千六百五十円
一週間後、若者が直接絵画を届けにマンションにやって来た。名前を中川和也と言った。中川が居間に飾るのを手伝ってくれた。よくみるとやはりおかしな絵である。だが、部屋の雰囲気がいっぺんに明るくなった。
「室木さん、実は仲間内の五人展があるんですよ。是非、いらして下さい。みんなにも紹介したいんです」
そういうとワープロで打った案内状を置いていった。日にちを見ると二週間後の日曜日である。耕一は行こうかどうか迷ったが、結局行くことにした。三百万用意して出かけた。絵画展といってもみすぼらしい倉庫で行われていた。耕一が中へ入ると、中川が見つけて直ぐにやってきた。
「室木さん、ありがとうございます。よく来てくれました。仲間を紹介します。こちらへどうぞ来て下さい」
言われるままについて行くと倉庫の片隅にテーブルがあり、四人の若者がいた。中川が一人一人丁寧に紹介した。中川が彼らのリーダーの様である。山内、小池、村川、佐々木といった。みんな貧しそうな若者である。
中川は彼らの作品を丁寧に解説してくれた。説明にはとても情熱がこもっていた。彼らの絵はシュールであるが、色彩は素晴らしかった。特に中川の絵の色彩は群を抜いているように感じられた。
耕一は五人を集めて、尋ねた。
「今日の展覧会の出品作品で、君たちのもっとも気に入っている絵はどれですか?」
若者はそれぞれの代表作を示した。耕一は一点五十万で購入したいと言った。若者たちは最初戸惑っていたが、中川の勧めでみんな売ることにした。内心若者たちは、とても喜んでいた。倉庫の片隅で番茶を飲みながら、若者たちの夢や情熱に耳を傾けた。帰る時に購入代金二百五十万をテーブルに置いた。若者たちは驚いた様子でじっと眺めていたが、五人は耕一を出口まで見送ってくれた。耕一はとても気持ち良かった。
(これがタニマチというものか・・・・・・)
耕一は若い芸術家達に頑張ってほしいと素直に思った。しばらく歩いて、ふと振り向くと中川が出口でまだ見送っていた・・・・・・。
支払い・・・・・・・・・二百五十万円
残高 ・・・・・・・・・二億四千五百六万八千六百五十円
一週間後、五枚の作品は彼らによって耕一のマンションに届けられた。大き過ぎて飾る所がなかったので、奥の部屋に立てかけておいた。それからも、中川から時々、展覧会の案内状が届き、彼らとのつき合いは続いた。
耕一は名刺を持っているが、もう一人の耕一になる時の名刺も必要であると思った。平凡な名刺は嫌であるので、中川にデザインを頼んだ。中川も喜んで引き受けてくれた。二三日して中川が持ってきたものは、迷彩色のえらく変わったデザインであり、形も長方形ではなく、細長い六角形である。デザイン料兼作成料として五万円支払った。耕一はパソコンが得意であるので、それをスキャナーで写し取り、上質紙に印刷した。それを丁寧に切り取り、五十枚作った。名刺には「ムロキコンピュータソフト会社代表取締役社長 室木耕一」と印刷されていた。
支払い・・・・・・・・・五万円
残高 ・・・・・・・・・二億四千五百一万八千六百五十円
ある晩、自宅の部屋で、宝くじの用の小遣い帳をまじまじと見た。減るばかりである。少しは増やすことも考えるべきだろう。だが、なかなか思いつかなかった。そんな時、ふと、競輪をやってみようと思い立った。
子供の頃、父に連れられて競輪場に二人だけで行ったことがある。競輪のことはよく覚えていないが、そこで父と食べた焼きソバがとても美味しかったことを覚えている。父との少ない思い出の一つである。
次の土曜日、百万円を持って競輪場に出かけた。秋の特別杯が行われることになっていた。中へ入ると、多くの競輪ファンでごったがえしていた。赤鉛筆で新聞にマルやバツを書き込んでいる者、新聞を読みふけっている者、煙草をふかしている者、車券を拾っている者、呆然としている者、情けなさそうな顔をしている者など、中年の男達がとても多かった。彼らの会話は陽気であるが、「田んぼを一枚売っちまった」とか「かかあに逃げられた」とか「娘の嫁入り資金を使い切った」とか、やや自慢げに話していた。多くの身近な人達を泣かせてまでやる競輪とは、一体何なんだろうと思った。
耕一は、売店で競輪新聞を買い、どれに賭けるか検討した。特別賞は最終レースである。その前に試しに賭けてみようと思った。倍率の低い車券を買ってもあまり意味がないので、十倍以上の掛け率の車券を買うことにした。いくつかあったが、どれでも良かった。ふと見ると妻の誕生日の組み合わせがあった。二月四日で二ー四である。十四倍である。これの一点買いに決めた。戯れである。十万つぎ込んだ。競輪の場合、最後の一週で勝負が決まる。最終の鐘が鳴った時、選手たちは一斉に力を入れてこぎ出したが、耕一が賭けた選手は、最初前方に位置していたが、後ろからまくられて結局、六着七着であった。あっさりと十万消えてしまった。悔しい気持ちは何も起こらなかった。
最終の特別賞では、一番人気の車券を買った。三ー二で二倍である。九十万つぎ込んだ。だが、結果は予想に反して、二十倍の車券が当たった。ゴールした時、外れ車券が宙に舞った。耕一もそうするのだと思い、少し遅れて外れ車券を空に投げた。パラパラと散ってある種の侘びしさが漂っていた。
家に帰ると、妻が今月の小遣いとして三万円、耕一に手渡した。渡す時、妻は「無駄遣いしないのよ」と念を押した。いつものことである。耕一は、「ありがとう」と言って貰った。
支払い・・・・・・・・・百万円
残高 ・・・・・・・・・二億四千四百一万八千六百五十円
ある日、現金を持って、焼き物などで有名な小島骨董店に行った。主人はテレビなどによく出ている鑑定団の一人である。信用のおける店だと思った。店先には、いろんな骨董品が並んでいた。中に入ると主人はいなかったが、番頭らしき人物がいた。刀や鎧、花瓶、茶碗、皿、掛け軸などがあった。値段は安いもので五万、高い物で二百万三百万と値札が付けられてあった。耕一は特に茶碗に興味があった。耕一がじっと茶碗を見ていると番頭がやってきた。
「どうです、旦那さん。お気に入りのものがありましたか?」
「うーん、茶碗が欲しいんだけれどね、これしかないの?」と耕一は言った。
「ええ、ありますが、茶碗はピンからキリまでありましてね。五百万クラスのものもありますが・・・・・・」
「それを見せて下さい」
「ええ、しかし・・・・・・」
番頭は、耕一がただの冷やかしの客ではないのかと疑っている様だった。それで耕一はバックから札束をちらりと見せた。すると、
「・・・・・・ええ、よろしゅうございます。こちらへどうぞ」
と言って、部屋の奥へ通した。しばらくすると主人が出てきた。着物を着て、テレビに出ている姿と同じだった。
「私は主人の小島甲之介でごさいます。所で、お客様は、どのようなお茶碗がご所望ですか?」
そう尋ねられて困ってしまった。耕一はあまり茶碗の知識は無かった。単に高級茶碗が欲しいと思っただけだった。知識をふる動員して、
「ええ、備前焼や織部焼き、唐津焼きなど、ありますか? とにかく高級品を見せて下さい。良いものなら買います」
「・・・・・・ええ、かしこまりました」
主人は奥に行き、三つの茶碗の入った箱を持ってきた。箱から出すと、一つは白茶碗、一つは緑色の茶碗、一つは煤けた黒っぽい茶碗だった。
「これらは資産価値があるものばかりです。流行によって値段が左右されることはありません。安心してご購入できますよ」
主人は、耕一が趣味人ではないことを見抜いている様である。耕一はその三つを手に取り、よく眺めた。高級品と言えばそう見えるが、その価値はよく分からなかった。耕一は黒く煤けた三つ目の広口の茶碗が気に入った。
「これはおいくらですか?」
「お客様、お目が高いですね。この三つの中では一番高いものでございましてね、中国の明の時代の天目茶碗です。・・・・・・そうですね。六百万円いたします」
値段を言う時、少し間があったのが気になった。買うかどうか迷い、腕組みをした。主人は落ち着いて、黙ったままだった。
「・・・・・・ええ、いいでしょう。でもこれが偽物ということは無いんでしょうね?」
「お客様、私どもは信用のある店でございます。どのようなお客様であろうとも、偽物を売ったことは今まで一度もございません」と主人は、きっぱりと言い切った。
「・・・・・・分かりました。では購入致します。消費税は取るのでしょうか?」
「いえ、結構でございます」
耕一はバックから六百万円を取り出し、テーブルに置いた。主人はそれを受け取ると、茶碗を箱に入れ、風呂敷で包んでくれた。
「お客様、風呂敷はサービスでございます。・・・・・・所でお客様の名刺を戴けないでしょうか。またいい物が入りましたら、お知らせ致します」
耕一は中川が作った名刺を差し出した。
「おや、これは珍しい名刺ですね。・・・・・・コンピュータソフト会社の社長様でございましたか。今後もごひいきに宜しくお願いいたします」
家に帰ると誰もいなかった。二時過ぎであるが、耕一は昼飯を食べていなかった。それで六百万の茶碗で飯を食べることにした。冷や飯が残っていたので、お茶漬けにすることにした。茶碗をよく洗って、飯を入れ、インスタントのお茶漬けを振りかけた。そしてその上からお茶を注いで食べた。味は変わらなかったが、箸で茶碗を叩くと六百万円の音がした、いや、そんな気がした。
支払い・・・・・・・・・六百万円
残高 ・・・・・・・・・二億三千八百一万八千六百五十円
二ヶ月ほどして、小島骨董店の番頭の八島という人物から電話があった。とても素晴らしい国宝級の焼き物があるとのこと。一つ観て下さいと言うのである。耕一はどうしようか迷ったが、小島甲之助から買った茶碗はとても気に入っている。その茶碗でよくご飯を食べるのであるが、実に美味しい気がするのである。
買った茶碗以上に素晴らしい茶碗ということで結局、拝見することにした。今回は八島が直接、耕一のマンションまで持っていくと言った。
次の日、八島とある人物が耕一のマンションを訪れた。八島は確かに小島骨董店の番頭である。もう一人の人物は、六十歳過ぎの男であり、国務院大学教授の今川祐太朗と言い、骨董学の権威だそうである。名刺も受け取った。
「室木社長。実は、宋の時代の油滴天目茶碗が手に入ったんですよ。まずはご覧下さい」
そう言うと、八島は古い木箱から茶碗を取り出した。全体に黒っぽい感じで、所々薬が解け出し、それが油が流れた様に見え、全体に高級感が漂っていた。
「これとほぼ同じものが江戸国立博物館に展示されております。ここに図鑑がありますので、ご確認下さい」と八島が説明した。
手渡された図鑑を観ると、確かに目の前の茶碗とそっくりなものがあった。国立博物館所蔵と写真の脇に書かれてあった。
「この二つは同じ作者によって作られたもので、対になっているものでしてね・・・・・・。国宝級のものなんですが、世間一般には知られていません。へたに世間に知られると国宝にしなければならなくなってしまい、売買が簡単にできなくなってしまうんですよ・・・・・・。それからこれには私の鑑定証明書も付いております」と今川教授は説明した。
「主人の小島甲之介が室木社長にお譲りしてはどうか、と申しますんで持って参りました」
「値段はいくらです?」と耕一は尋ねた。
「そうですね。二千五百万でも売買されますが、二千万では如何でしょう? この茶碗はいくら不況でも値段が下がることはありません。本物は違います・・・・・・」
耕一は実に欲しいと思った。だがあっさり買いましょうと言える値段ではなかった。
「うーん、二三日考えさせていただけませんか?」と耕一は言った。
「ええ、結構でございます。十分お考え下さい。考えが決まりましたらこちらへお電話下さい」
八島は電話番号を記した紙を耕一に渡した。
「お店ではないんですか?」と耕一が尋ねた。
「ええ、実は主人の甲之助は今、中国に骨董の買い付けに行っておりまして、店にはいないんですよ。このことは主人と私しか知らないことなんで・・・・・・」
「・・・・・・分かりました。二、三日中に必ず連絡します」と耕一は言った。
それからしばらく骨董品についての雑談をした後、二人はマンションから帰っていった。
耕一はあの油滴天目茶碗が目に焼き付いて離れなかった。それでさらに確認するために、次の日、仕事を早引けし、江戸国立博物館に行き、それと同じ焼き物をじっくりと観た。昨日みた物と実によく似ていた。三十分ばかり眺めていると、警備員が近くにやってきて耕一に注意を向けるようになった。それで慌てて帰ることにした。帰りに天目茶碗の図鑑を買い、油滴天目茶碗のことを調べた。戦国時代の大名に好まれた焼き物であり、天目茶碗の中でも最高のものともされている。
その夜、耕一は八島に電話を掛けた。明日の晩、天目茶碗をマンションに持ってくるように八島に言い、二千万で買うと伝えた。
次の日の七時、八島は一人で天目茶碗を持ってきた。八島は箱から天目茶碗を出し、テーブルに置いた。見れば見るほど欲しくなった。
「では、ここに二千万あります。ご確認下さい」
耕一は銀行の封の付いたまの札束を茶碗の脇に置いた。
「いえ、結構でございます。このままいただきます」そう言うと現金を数えることなく、そのままバックに入れて、八島は持ち帰った。買った天目茶碗でさっそくインスタントのお茶漬けを食べた。二千万円の味がした。だが、今川教授の鑑定証明書がないことに気付き、八島に電話を掛けたが、連絡が付かなかった。それで少し不安になり、小島骨董店に電話を掛けた。八島のことを告げると小島甲之助が電話口に出た。八島は一ヶ月前に不祥事を起こし、辞めさせたとのことである。今までの出来事を告げると、騙されたかも知れないので、その茶碗を持ってくるよう小島は耕一に言った。その話を聞いて、耕一は体から力が抜けていくのを感じた。
次の日、病気で休むと会社に連絡し、小島骨董店へ茶碗を持って出かけた。小島に天目茶碗を見せると、「間違いなく偽物です」と指摘した。だが出来映えのいい偽物であり、値打ちにして二十万はあるとのこと。また、今川教授などは全く知らないとのこと。この世界ではこんなことはよくあるのだそうである。「これも勉強の内です」と小島は最後に付け加えた。だが、勉強にしては実に高い経費である。骨董は二度とやるべきでないと痛感した。
支払い・・・・・・・・・二千万円
残高 ・・・・・・・・・二億一千八百一万八千六百五十円
耕一は財布の中に、不動産屋の社長の安田から貰ったキャバレーの招待券があることに気づいた。ずっと忘れていたものである。一度は行ってみようと思い、朝食の時、
「今日、取引先との接待があるので遅く帰る」と妻に伝えて出かけた。
会社が終わると電車に乗り、キャバレー「シュブール」に真っ直ぐ行った。六時過ぎであり、中へ入ると客はまだほとんどいなかった。招待券を男性従業員に出すと、その若い男性は奥に入りマダムらしい女に渡した。するとマダムは耕一の所へやって来て、
「室木様、安田社長からよく聞いておりますわ。ごゆっくりおくつろぎ下さいませ」
と言って、マダムは水割りを作ってくれた。マダムから名刺を貰ったが、名前は「さなえ」と言った。耕一も名刺を渡した。「とても珍しい名刺ですね」と言った。しばらく話相手になっていたが、お客が増えてきたので、そちらの方へ行った。その後、一人の若いのホステスがやってきた。名前は「中山ユキ」と言い、マダムからしっかり接待するよう言われたとのことである。年は二十二三歳くらいに見えた。髪の毛が肩にかかるくらい長く、少し栗色に染めていた。肌は白く、ぼっちゃりとして耕一好みである。ピンクのミニスカートがとてもよく似合っていた。
「社長さん、名刺を下さいな」とユキが言った。耕一が渡すと、
「えっ! コンピュータ会社の社長さんなんですか! わー、凄いですね。私、コンピュータのことはよく分からないの。今度、インターネットの使い方を教えて下さいね」
「ああ、いいよ。こちらは専門だから、いくらでも教えてあげるよ」
若い女と二人きりで長く喋るのは久しぶりである。ユキはコンピュータのことをよく尋ねてきたので、話しやすかった。耕一はコンピュータの楽しさや可能性をいろいろと教えた。ユキも興味をもって聞いていた。ユキはずっと耕一の席から離れなかった。二時間ばかりつき合ってくれた。そろそろ帰ろうとすると、「今度、食事に連れてってください」とユキは言った。「いいよ」と喜んで耕一は答えた。帰りにチップを一万円あげた。ユキは「うわー、ありがとう」と言って、耕一にウインクした。
店を出る時、レジで金を払おうとしたが、マダムは受け取らなかった。招待券で十分とのことである。
「また今度いらして下さいな。お待ちしております」とマダムは言った。
店を出る時、マダムとユキが見送ってくれた。なかなか感じのいい店だと思った。
支払い・・・・・・・・・一万円
残高 ・・・・・・・・・二億一千八百万八千六百五十円
二週間余りして再び店を訪れた。ユキは耕一を見つけると直ぐにやって来た。今回もマダムとユキが接待してくれた。
「食事に行かないかい?」と耕一がユキに言った。
「ええ、いいわ。今日の仕事は早引けしてもいいの。一緒にこれから行きましょう」
とユキは答えた。こんなにうまくいくことが不思議だった。店を出る時、マダムとユキが何か話していたが、気にもしなかった。
「何が食べたい?」と耕一が尋ねると、
「お寿司がいいわ」と答えた。
寿司は久しぶりである。一年に二三回行くことはあったが、回転寿司屋ばかりだった。雑誌などにも紹介されている高級寿司屋に行こうと思った。ユキは、「そんな高級店は高いから行かなくてもいい」と言ったが、結局、すんなりと店に入った。
耕一は今までこのような高級寿司屋に入ったことはないが、ユキに見破られないように落ち着いて振る舞った。耕一はユキに、「何でも注文していいよ」と言ったが、ユキは少し躊躇していた。それで耕一が自由に高い物を中心に頼んだ。オオトロ、ヒラメ、ウニ、ホタテなど、次々に注文した。ユキはとても美味しいと言って喜んだ。若い女を喜ばすのはとても楽しいと感じた。若い内はともかく、中年になると肉体関係を結ばなくても結構楽しめることを耕一は知った。
店を出る時、勘定として十万三千円支払った。店を出てからしばらく歩いた。ユキは耕一の腕に手を廻してきた。耕一もユキの腕をしっかりと絡めた。こんな嬉しい気持ちは何年ぶりであろうか。
「ねえ、おじさま。今度、コンピュータのことを教えてね」とユキが言った。
「ああ、いいよ。どんなコンピュータを使っているんだい?」
「ええ、実はまだ買っていないの。どんなものを買ったらいいかも分からないわ」
「そうだ、わたしが買ってあげよう」
「うわー、嬉しいわ」
「よし、今度の日曜日に一緒に買いに行こう」
「ええ、お願いします。こういち・お・じ・さ・ま」と言って手を合わせ、拝む真似事をした。おじさまという言葉には甘い響きが感じられた。ユキにタクシー代として一万円渡し、タクシー乗り場で別れた。
ユキが去ってから、こんなことをしていていいのだろうかという疑問が湧いてきた。だが直ぐにそれは消え去った。今までに無い楽しい時間を過ごせたのである。これも宝くじのおかげだと強く実感した。
支払い・・・・・・・・・十一万三千円
残高 ・・・・・・・・・二億一千七百八十九万五千六百五十円
次の土曜日、ユキと駅で待ち合わせをした。そこから駐車車に行き、耕一の高級車に乗って大型電気店に行った。耕一は三十万円もするノート型パソコンとプリンターを買ってやった。それを持ってユキのマンションに行った。それほど豪華なマンションではなかった。だが、若い女の部屋に入るのは、中年になってからは全くなかった。部屋は綺麗に片付いており、香水の甘い香りがした。ベットの脇の机の上に設置することにした。設置してから、インターネットに接続し、耕一のEメールと携帯番号を教えた。
「いいかい。何か分からないことがあったら、これで私に尋ねるんだよ」
「はぁーい、おじさま。今後ともよろしくお願いしまーす」といって微笑んだ。
一つ一つの仕草がとても可愛かった。この年になってこんな可愛い女と一つの部屋にいることができることが、とても不思議な気がした。これも金のお陰なのだろうか、いや、自分に魅力があるからではあるまいか、のぼせ切った今の耕一には分からなかった。実際は、金があるからなのであるが、分別すら無くなっていた。その日は、それで帰ることにした。それ以上踏み切る勇気はなかった。拒絶されることがとても怖かった。
しばらく経ったある日、会社が終わる頃、佐伯課長から会議室に呼ばれた。部屋には佐伯課長しかいなかった。
「室木くん、実は我が社は君も知っての通り、不況でね・・・・・・。リストラしなければならないんだよ・・・・・・」
耕一は、以前からそんな噂があることを知っていた。自分がその対象になるのではないかという予感もないではなかったが、実際、言われるとがっくりした。この会社には大学を卒業して二十年近く勤めている。愛着もあった。
「リストラの対象に、私がなっているということでしょうか?」
「・・・・・・うーん、はっきりと言うとそうだ。いや、何、私が決めた訳じゃないんだよ。上の方で決定したことだ・・・・・・。何とか了解してもらいたい。もちろん、退職金ははずむという話だ。是非ともお願いする。私としても大変なんだよ」
「・・・・・・しばらく考えさせて下さい」
「考えるのはいいが、ここに残っても何もいいことは無いよ」と強く言った。
耕一は黙ったまま佐伯課長に頭を下げ、部屋から出て、そのまま帰宅した。家に帰っても妻には何も言わなかった。言えることではなかった。もしこのことを妻が知ったら、恐らく離婚を迫るであろう。そんな女である。このことはしばらく伏せておくことにした。だが、耕一は会社を辞めることにした。嫌な思いまでして会社に残る気はなかった。
次の日、佐伯課長に会社を辞めると伝えた。佐伯はほっとしている様だった。耕一の肩を叩き、「気を落とさないで、頑張って欲しい」と言った。
退職金は六百五十万円出た。今の耕一にとって大した額ではないが、これは宝くじの金とは別に大切にしようと思った。
退職が決まった日、みんなが送別会を開いてくれた。最初は「残念ですね」とか「これからも第二の人生を頑張って下さい」などと言っていた。しかし、二次会に行こうとは誰も言わなかった。耕一は花束を持って駅に向かった。花束を家に持ち帰る訳にはいかないので、駅のゴミ箱に捨てた。その時、これで会社勤めともオサラバだと思った。
(さてこれからどうしよう?)
妻には黙っていた。会社に行くと言って、マンションに向かい、読書や釣りなどをしていた。だが、一週間ほどでバレてしまった。退職金が家の通帳に振り込まれたのである。うかつであった。
「この金はどうしたのよ!」と妻が強い調子で尋ねた。
「退職金だよ。実は会社をリストラされてしまったんだよ」と静かな声で答えた。
「何ですって! これからどうするのよ!」
妻はやはり激怒した。そして離婚するとわめいた。普段、口を聞かない高二の息子も耕一を激しくなじり、二階へ上がってしまった。耕一は黙ったまま聞いていた。この家族もお終いだな、と感じていた。
その夜、耕一は離婚届けを机から出し、書き上げた。リストラされてから、こうなるかも知れないと思い、用意しておいたものである。離婚届けと一緒に手紙を書いた。
妻と息子へ
離婚には同意します。この家と家の財産全てをお前達に譲ります。私は家を出て行 きます。もう戻ることはありません。家の借金が一千万ほどあります。家の貯金が退 職金と合わせて一千三百万余りあります。これから生活する上で少し足りないと思い ますので、五百万円置いていきます。これは私の親の遺産です。なお、私に関する物 は、全て処分しても構いません。それではお二人さん、お元気で。さようなら。
耕一より
追伸 私は一から出直します。心配する必要は全くありません。なお、自殺するつもりもありません。
耕一は貧乏人の小せがれである。親の遺産など何も無かった。五百万円は、宝くじから出したものである。耕一は手紙を居間のテーブルの上に置き、その上に五百万円をどさりと置いた。それから耕一は親の位牌を持って、二人に気づかれないように静かに家を出た。位牌以外に持っていく物は何も無かった。玄関を出て、しばらく歩き、振り向くと家はしんとしていた。三日月が家の西側にぼんやりと浮かんでいた。
耕一は駅に行った。しかし電車はなかった。それでタクシーでマンションに向かった。一万五千円かかった。
支払い・・・・・・・・・五百一万五千円
残高 ・・・・・・・・・二億一千二百八十八万六百五十円
耕一はすることも無いので、ユキに逢いに「シュブール」へよく通った。一晩で五万ほど使った。上客である。ある晩、店で飲んでいると安田社長がやって来た。マダムはどうも安田の愛人の様である。安田とは馬が合い、いろいろと話が弾んだ。安田が耕一に合わせていたのかも知れない。
「今度の日曜に、ゴルフに行きましょう」と安田が提案した。
「おお、行きましょう」と耕一は二つ返事で承諾した。
ゴルフの当日、安田とマダムのさなえがやって来た。
「マダムは、社長のコレですか?」と耕一は小声で小指を立て、安田に言った。
「ええ、そうですよ。でも室木社長もいるでしょうが・・・・・・ユキはどうなんです?」
そう言われ、「とんでもない」と耕一は手を振って否定した。安田は笑っていた。
三人でゴルフをした。耕一はゴルフには少し自信があった。接待ゴルフでは適当に相手に気づかれないように負けるくらいの技術はある。さなえは大した腕でないが、安田はなかなかの腕前である。耕一はもう少しで負ける所であった。
「室木社長、なかなかの腕前ですね」と安田がしみじみ言った。
「ほんと、お上手ですわ」とさなえが相づちを打った。
「いやいや、大したことないですよ」と言って耕一は笑った。真剣にやってゴルフに勝つというのは気分がとても良いものである。
楽しい一日だった。それからも安田は耕一を何度かゴルフに誘った。耕一も断る理由が無いので、その度に出かけた。シュブールでも何度か一緒に飲んだりした。なお、ゴルフ一式を二十一万で買い、プレイ代等、二万円五千円かかった。なお、今までの飲み代として二十五万四千円支払った。
支払い・・・・・・・・・四十八万九千円
残高 ・・・・・・・・・二億一千二百三十九万一千六百五十円
その後、ユキとは店で逢うだけでなく、食事に行ったり買い物をしたり、デートを重ねていた。エルメスのバックや靴、時計、服などを買い与えた。ユキとのつき合いに要する金は、二百五十万六千円かかった。しかし、おしいとは思わなかった。青春を金で買っているつもりである。だが、ユキとは肉体関係を持つまでには至ってはいなかった。チャンスは何度かあったが、いま一つ発展しなかった。ユキが巧妙に避けていたのかも知れない。しかし、耕一はそれでも良かった。中年紳士として振る舞おうとした。無理をして逃げられても困るのである。
支払い・・・・・・・・・二百五十万六千円
残高 ・・・・・・・・・二億九百八十八万五千六百五十円
耕一は豪華なデートをしてみたくなった。昔、映画でやっていた一シーンを印象的に覚えている。それは遊園地を借り切るというものである。耕一は遊園地を夕方から四時間ほど借り切り、ユキとデートしようと考えた。耕一はインターネットでいくつかの遊園地を捜した。なかなかすぐに貸してくれる所はなかったが、交渉の結果、五百万で貸してくれる所が見つかった。それほど規模は大きくなかったが、観覧車は立派であった。それで耕一は契約することに決めた。
一週間後の金曜日の午後八時から十二時までを借り切った。ユキに話すと耕一に抱きつき、すごく喜んでくれた。
当日、二人はお洒落して出かけた。遊園地の入口に着くとタキシードを着た支配人と数人の従業員が出迎えてくれた。閉店までサポートしてくれるそうである。
「室木様、どれからお乗りなさいますか?」と支配人が尋ねた。
ユキがジェットコースターに乗りたい、と強く言うので、それに乗ることにした。ユキはこれが一番好きなのだそうである。しかし、耕一は今まで乗ったことはなく、子供の頃から避けてきた乗り物である。よくあんな危険なものに乗りたがるものだとつねづね思っていた。しかし、ユキの手前、嫌だとは言えなかった。
先頭の席に二人並んで乗った。ある高さまでゆっくり上り、突然走り始めた。ユキは「キャーキャー」と喜んでいたが、耕一は「ギャーギャー」と叫んでいた。初めての感触である。着くと少し気分が悪くなった。ユキはもう一度乗ろうと言ったが、耕一は断り、ユキ一人で再び乗った。耕一は下から眺めていたが、とても楽しそうだった。
次はメリーゴーランドに乗ることにした。これもユキの希望だった。夜のメリーゴーランドは夢の世界の様で、馬や象の乗り物があたかも生きているかの様に感じた。支配人が乗り物の近くでにこにこと微笑みながら眺めていたが、少し不気味な感じがした。彼には悪いが、闇の支配人の様に見えた。
次にミラールームに入った。その部屋は全て鏡でできており、一度入ると迷路である。最初ユキと手をつないで入ったが、ユキがワザと手を離して隠れてしまった。ユキを呼んだが、返事だけで姿は見えなかった。
ふと、耕一は四方に映る自分の姿を眺めた。全くの中年男である。顔の目尻辺りに皺が数本あり、白髪も僅かではあるが目立つようになり、少しお腹も出て、若くはないことを実感した。
(俺は一体、何をしているのだろう?)
こんな遊びは自分には相応しくないのではなかろうか、と思った瞬間、ユキが背後から抱きついてきた。
「おじさま、何考えてるの! しっかりユキを捜して!」
耕一を見てにっこり微笑んだ。耕一も再びメルヘンの世界に引き戻されて、楽しい気分となった。鏡の部屋を出る時は、ユキと腕を組んでいた。
次は、遊園地の中を走る猫の形をした小型バスに乗った。運転手がいて、どこに行きたいかを尋ねた。
「どこでもいいから連れてって頂戴」とユキが言った。
バスに乗り、ユキは耕一にもたれかかりながら、遊園地に流れるメルヘンチックな音楽を聴いていた。
十分ばかり遊園地内を走った後、
「はい、着きました」と運転手が言った。
降りた所は、遊園地の中にあるゲームセンターだった。その中に入り、ユーフォーキャッチャーをしたが、なかなか取れなかった。
「お客様、コツを教えます」と背後から声がした。
振り向くと支配人がいた。支配人はぬいぐるみを取るコツをていねいに教えてくれた。その通りに耕一がやると「熊のぬいぐるみ」が一つ取れた。ユキはそれを貰い、とても嬉しそうだった。次に射的をやった。支配人が玉のたくさん入った缶を耕一の前に置いた。
「好きなだけお撃ち下さい」と支配人が言った。
だが、耕一はそれではおもしろくなかった。限られた球数でいかに撃ち落とすかが重要である。
「十発で結構です」と耕一が言うと、支配人は缶から十発だけ玉を取り出し、耕一に手渡した。耕一は玉を込めながら、棚に並ぶ品物を眺めた。すると銀色に輝くジッポのライターがあった。耕一がいつも使っているものは百円ライターだった。あれが欲しいと思い、何度も狙った。何度か当たるのであるが、下まで落ちるまではいかなかった。
「他のものを狙ったらどう?」とユキが言った。
だが、どうしてもあれが欲しく、最後の一発は慎重に狙いを定めて撃った。玉はジッポの上部に当たり、バタリと倒れたが、やはり下までは落ちなかった。耕一がため息を付いて残念がっていると、
「これは残念賞です」と言って、支配人がジッポのライターを耕一の前に置いた。
「ありがとう。でも・・・・・・」
「どうぞ、最後までごゆっくりお楽しみ下さい」といって支配人は頭を軽く下げ、すっと後ろに消えた。
ゲームセンターを出て、今度はゴーカートに乗ることにした。近くに整備員がいたので、
「何周してもいいですか?」と耕一が尋ねると、
「結構です。お好きなだけお乗り下さいませ」
と背後から声がした。振り向くと、支配人が立っていた。
ユキは耕一に競争しようと持ちかけた。
「ユキが勝ったら、エルメスのバックを買って」と言うので、それを賭けて五周で競争することになった。もし耕一が勝ったら何を貰えるのか尋ねようとしたが、ユキはさっと乗り込んでしまい、話しかけるタイミングを失った。
支配人の合図でスタートした。ユキがフライング気味で飛び出し、なかなか荒っぽい運転をした。耕一はなかなか抜くことができず、最後まで二番だった。無理に抜こうという気持ちもなかった。ユキは勝ち、声を上げ喜んでいた。エルメスのバックを以前、ユキに買ってやったことがある。そんなにそのバックが欲しいものなのだろうか? 女の欲の深さを感じる耕一であった。
少し疲れたので、ベンチで休むことにした。二人が休んでいると、支配人が現れて、
「何か食べたいものはございませんか?」と尋ねた。
「アイスクリームが食べたいの」とユキが言った。
「はい、少々お待ち下さい」と言うと、すっと消えた。五分ばかり待っていると、ソフトクリームを二つ持って現れた。
「この遊園地の特製アイスクリームでございます」と言って二人に手渡し、再び消えた。
ベンチに座り、遊園地のきらめく灯りを眺めながらアイスをなめた。
「もうすぐ約束の十二時だな」と耕一が呟いた。
「ええ、シンデレラが戻る時間だわ」とユキは言った。
「そうか。では王子様は、私ということか?」
「そうね。ちょっと腹の出た王子様ね」と言ってユキは笑った。
「実は最後に乗りたい物があるんだけど・・・・・・」と耕一は言った。
「観覧車でしょ」とユキは答えた。
「何で分かるんだ?」
「何となくよ、耕一おじさま」といってユキは微笑んだ。
二人が観覧車の所に行くと、支配人が入口に立っていた。
「どうぞお乗り下さい」
支配人は観覧車のドアを開けてくれた。二人は乗り込み、向かい合って座った。
「やはり遊園地は、観覧車だな」
「どうしてそんなに観覧車が好きなの?」
「ずっと昔、若い頃、観覧車でデートしたことがあるんだよ」
「初恋の人?」
「ああ、そうだよ。初恋だったな」
「なら、ユキが初恋の人になってあげるわ」
ユキは耕一の横に座った。耕一はユキの肩に手を回し、キスをした。観覧車は五分ほどであったが、夢の様な一時に感じた。降りて時計を見ると十二時まであと五分ほどであった。二人が出口に行くと、支配人と従業員が既に並んで待っていた。
「十分楽しむことができましたか?」と支配人が尋ねた。
「ええ、とっても素敵な夜でしたわ」とユキが答えた。
二人が外に出る時、
「またのお越しをお待ちしております」と支配人はていねいに頭を下げ、礼を述べた。二人は遊園地に沿って続く道路を歩いていると、遊園地の灯りが一つずつ消え始めた。そして最後の灯りが消えた時、寂しい気持ちになった。
駐車場で車に乗り、ユキをマンションまで送り届けた。そして耕一は自宅のマンションに帰った。既に二時近くだった。
支払い・・・・・・・・・五百万円
残高 ・・・・・・・・・二億四百八十八万五千六百五十円
次のデートの時のことである。約束のエルメスのバックを渡し、居酒屋で酒を飲み、ユキのマンションに行った。耕一はマンションまで送るだけのつもりでいた。しかし、ユキが「コーヒーでも飲んでいって」と言うので、マンションに入った。酔いも少し回っていたので、つい、いつもより行動的になってしまった。ソファーで耕一はユキを引き寄せたが、嫌がる様子はなかった。耕一がベットの方に連れて行くと多少の抵抗を示しながらもユキはベットに横たわった。了解していると耕一は感じた。だが、その時である。男が部屋に入ってきた。角刈りの、やくざな感じの若い男である。
「おい、俺の女によくも手を出したな! 俺は刑務所帰りだ! よくも俺の留守に好き勝手なことをやってくれたもんだな!」
男は、耕一の胸ぐらをぐいと掴んだ。
「やめてよ、浩介! 社長さんはそんな人じゃないわ!」
ユキは止めようとした。だが、男は耕一を脅し続けた。
「おい、社長さんよ! このままで済むとは思っていないだろうな!」
「・・・・・・どうすればいいんだ?」
「分かっているだろう。落とし前をつけて貰おう。指の一本でも切り落として貰おうか」
「・・・・・・幾ら払えばいいんだ?」
「・・・・・・物わかりがいいじゃないか。・・・・・・そうだな、五百万支払って貰おう」
「今、持ち合わせがないんだが・・・・・・」
「後でもってこいよ。ただし、今、持っている金を出しな!」
耕一は財布から三十万円差し出した。それで何とか開放してもらった。だが、三日後に五百万円持ってここに来るよう男に脅迫された。ユキは悲しそうに耕一が去るのを眺めていた。
支払い・・・・・・・・・三十万円
残高 ・・・・・・・・・二億四百五十八万五千六百五十円
耕一は、しばらく鼓動が高鳴った。これが「つつもたせ」というものなのか。話には聞いたが、実際に自分がそんな目に合うとは思わなかった。マンションに戻ってこれからどうすべきか考えた。五百万円はそれほどの金額ではない。しかし、これで恐喝が終わるとは思えなかった。それで安田社長に相談することにした。今の耕一には、彼以外相談できる者はいなかった。
次の日、社長に会いに安田不動産へ行った。丁度社長は出勤していた。安田は耕一を喜んで迎えてくれた。応接室で昨日の出来事を説明した。最初はにこやかに聞いていたが、だんだんと真剣な顔つきになり、最後には怒っている様に見えた。
「・・・・・・室木さん、分かりました。とんでもない奴らですな。ユキは私のキャバレーに務めている子ですんで、私も無関係という訳にはいきません。私の方で何とかカタを付けましょう」
「そう言ってもらえると、とても助かります。失礼ですが、これでお願いします」
耕一は頭を下げ、カバンから百万円の束を二つテーブルに置き、安田の方に押した。
「いやいや、結構ですよ」と言って安田は押し返したが、耕一は拒んだ。
「では、一つだけいただきます。二つは多すぎますよ」と言って安田は笑い、百万円受け取った。耕一は百万円をカバンに戻した。
「室木社長、もうユキのマンションに行ってはいけません。ユキのことは諦めてもらいしますよ。やくざのヒモがいる様な女に、かたぎの方は手を出していけませんな」
「・・・・・・ええ、諦めます」
耕一はユキにまだ未練はあるが、この先どんな怖い目に合わされるかを考えたら、諦めるしかなかった。
その後、ユキやユキのヒモからも何も言って来なかった。五日ほどして、安田社長から突然電話があった。既にカタがついた、とのことである。耕一はシュブルールで会おうと約束した。安田も快く承諾してくれた。
シュブールに早めに行き、飲みながらしばらく待っていると安田がやって来た。
「本当にカタがついたんですか?」と耕一が尋ねた。
「ええ、多少ごたごたしましたが、もう何も言って来ないと思いますよ。ユキもこの店を辞めました」
「どんな風にして解決したんですか?」
「この店の用心棒兼バーテンをやっている黒木と中井にやらせましたよ」と言って笑った。
安田は黒木と中井を呼んだ。もちろん耕一はこの二人のことを知ってはいたが、用心棒までやっているとは思わなかった。黒木は三十歳過ぎであり、一見物腰は穏やかであるが、怒らせたら怖そうな感じの男である。髪をオールバックにし、顎辺りに少し傷がある。中井は二十五、六歳であり、髪を垂らして真ん中に分けている。黒木が兄貴分である。二人は耕一に改めて挨拶した。耕一は二人に感謝し、後で耕一は二人を洗面所に別々に呼び、お礼として五十万ずつ渡した。二人とも思ってもいなかった様で、とても喜んでいた。
その後も耕一はシュブールによく通ったが、二人の耕一に対する態度はとても愛想が良くなった。煙草に火を付けようとすると、さっと中井が付けてくれることもあった。
今回の事件で、礼金及び飲み代等で二百十万円使った。
支払い・・・・・・・・・二百十万円
残高 ・・・・・・・・・二億二百四十八万五千六百五十円
ある日、耕一は、安田社長に相談があるとシュブールに呼ばれた。
「実は私は馬もやってましてね」と安田は手綱を握る真似をして言った。
「博打ですか?」
「いやいや、違います。競馬のオーナーなんですよ」
「えっ! 安田さんはホントに馬を持ってるんですか! それは驚きですね。何という馬なんです?」
「ええ、ヤスダブルボンと言うんですな、これが・・・・・・」
「自分の名前を付けたんですね」
「ええ、でもこの馬が今ひとつパッとしないんですよ。まれに勝つこともあるんですが、ビリってこともあるんですよ・・・・・・。むらっ気があっていけません。・・・・・・所で、室木社長、馬のオーナーになってみる気はありませんか。いや何、馬を見るだけでもいいんですよ。今度、新潟の牧場に行くんですが、どうです、旅行がてら一緒に行きましょう」
耕一は突然の申し出だったので、少し困惑したが、以前の借りもあるので、むげには断れなかった。
「・・・・・・ええ、いいでしょう。新潟に行きましょう。でも買うとは限りませんよ・・・・・・」
「ええ、もちろんですとも。無理矢理買う必要はありません。見るだけならタダですから・・・・・・」
と言って、耕一の肩をポンと叩いた。
次の土曜日、現金を五千万ほど用意して、新潟に新幹線で行くことにした。安田の愛人のさなえがどうしても行きたいと言うので、連れて行くことになった。安田には八重子という、れっきとした正妻がいる。八重子には、耕一と一緒に新潟に馬を見に行くということで了解を取った。耕一は安田の友人ということで、口裏もしっかり合わせた。
新潟駅で降り、しばらく駅前で待っていると、ライトバンがやって来た。若い男が運転していた。牧場の息子の康太だと自己紹介した。それに乗り山田牧場へ向かった。一時間ほどして牧場に着いた。牧場にはたくさんの馬が駆け回っていた。
車から降りると、一人のヒゲを生やした中年の男がやって来た。
「初めまして。私は、この牧場を経営しております山田善太郎と申します」
と言って深々と頭を下げ、ていねいに挨拶した。耕一のことは安田が紹介してくれた。山田と安田は昔からの知り合いであり、安田の馬を山田が管理していた。
コーヒーを飲み、しばらく雑談してから、
「どうです、馬でもご覧になりませんか?」と山田が言った。
「ええ、行きましょう。室木さんも如何ですか? 私の馬も見てもらいたいですな」
と安田が耕一に言った。
三人は馬を見に行くことになった。さなえは疲れたのでしばらく休むと言った。
「ほら、先頭を走っている、あれが私の馬ですよ」
安田は遠くを走っている何頭かの馬たちを指差した。先頭の馬は栗色の美しい馬だった。山田が笛を吹くと馬たちはこちらへやって来た。
「どうです。可愛いもんでしょう」と言って安田は自分の馬の体を撫でた。
「あのう、安田さん。私に売ろうという馬はどれなんですか?」と耕一が尋ねた。
「えっ! 馬を買おうというんですか!」と山田は驚いた様子で言った。
「いや何、買う買わないは別として、室木さんは馬を見てみたいと言うんですよ」
と安田は言った。
「今、とてもいい馬がいますよ。不況で値段もバブルの頃の半額以下ですから、絶対買い時ですよ」
「何処にいるんですか?」と耕一が尋ねた。
「ここにはおりません。北海道の日高の牧場にいます。一ヶ月前に産まれたばかりの馬でしてね。血統も抜群ですよ。父親がダービーを制した馬なんです。私の友人の坂田という男が現在所有してるんですが、不況でしてね。どうしても手放さなければならなくなったんですよ。私はその馬の出産に立ち会ったんですが、一目見てとても気に入りました・・・・・・」
「ここにいないんでは仕方ないですな・・・・・・」と耕一を見ながら安田が言った。
「いや、買う気があるなら北海道に連れて行きますよ」と山田が言った。
耕一は実物を見なければ仕方ないと思い、
「では今度行ってみましょう。おおよそ、どれくらいの値段ですか?」
「うーん、そうですね。景気のいい頃なら一億くらいしたでしょうが、今は五千万弱でしょうね」
とても高い買い物だと思った。だが、山田は積極的に購入を勧めた。天皇賞やダービーも征するくらいの可能性があると、その能力の高さを熱心に説明した。
「では何故、山田さんが買わないんですか?」
「いやぁ、買いたいのは山々なんですが、高すぎて、なかなか手が出ませんね。でもその馬を任せてもらえれば、きっと立派な名馬に仕立ててご覧に入れますよ」
耕一は山田の説明を聞きながら、その馬に興味を持ち始めた。それで、北海道の日高に行くことにした。日高はサラブレッドの産地であり、その約八割を生産している。
「では、今度日高に行きましょう」と耕一が言った。
「ええ、私もお供致します。でも今度ではなく、明日行きませんか? あれだけのいい馬ですから、買われてしまうかも知れません」
「えっ! 明日ですか! えらく急な話ですね」
「善は急げというじゃないですか。是非行きましょう」と山田は耕一に強く勧めた。
「なら、行ったらいいじゃないですか」と安田も勧めた。
それで耕一は行ってみようと決心した。安田とさなえはここにいて地元の温泉を楽しむことになり、日高には山田と耕一の二人で行くことになった。
次の日、二人は新潟空港から北海道の千歳空港に行き、そこから鉄道で日高町の坂田牧場に向かった。その牧場は山田牧場よりずっと大きく、山田は若い頃、この牧場で修行していたそうである。駅からタクシーで行くと、丁度、牧場経営者の坂田義郎が牧場に待っていた。五十過ぎの体格のいい男である。馬を見せて欲しいと山田が頼んだら、
「見せるだけだぞ」と言って、売る様な素振りは見せなかった。
子馬は牡馬のサラブレッドで、納屋に母馬と一緒にいた。なかなか毛並みの良さそうな子馬であるが、走る姿を見たいと言ったら、しぶしぶ納屋から親子の馬を出し、走らせてくれた。
「どうです、室木社長。なかなかいい走りでしょう」と山田が目を輝かせて言った。
耕一は素人であり、これが本当にいい走りなのかよく分からなかったが、なかなか元気そうな子馬に見えた。
「元気そうな子馬ですね・・・・・・」
「ええ、あの走りは天性のものがありますね。絶対競走馬として成功しますよ」
と山田が力を込めて言った。
「どうかね、気に入ったかね?」と坂田が言った。
「ええ、私は気に入ってますよ。どうです、室木さん」と山田は耕一に勧めた。
耕一はしばらく子馬を眺めながら、買うかどうか迷っていた。そして値段で決めようと思った。耕一が用意した現金よりも高ければ買わないし、安ければ買うことにした。
三人は牧場に戻り、コーヒーを飲みながら交渉を行った。
「買いたいという希望はあります。しかし値段次第ですね・・・・・・」と耕一が言った。
「この馬はなかなかのもんでね。買いたいという人が他にもいるんですよ」
と坂田が言った。
「では、どれくらいで売ってくれますか?」と山田が口を挟んだ。
「うーん、五千万以上だね」と坂田が言った。
「五千万ですか・・・・・・」と耕一は呟き、四千万をテーブルの上にどさりと置いた。坂田と山田は驚き、それを眺めていた。坂田はしばらく間を置き、
「四千万では売れませんな・・・・・・」
耕一は少し間を置き、
「だめですか。仕方ないですね・・・・・・」といって四千万円を仕舞おうとした。
「室木社長、待って下さい。まだ話し合いの余地はあると思いますよ。ねえ、坂田さん」
と山田が脇から口を挟んだ。
「即金ならば、値段をもう少し下げてもいいが・・・・・・」と坂田が言った。
「ではどれくらい?」と耕一がすかさず言った。
「そうですね。四千八百万ではどうですか?」
「五百万では?」と耕一が言った。
「七百万。これ以上ダメですな」と坂田が言った。
「なら、六百万では如何です?」
「四千七百万!」と声を荒げて坂田が言った。
「・・・・・・いいでしょう。それで手を打ちましょう」と耕一が言った。
坂田も山田もほっとした様子だった。テーブルに後の七百万円を積み上げて、契約書を作成した。子馬は山田牧場に移し、山田が責任を持って競走馬として育てることになった。耕一は山田に全て任せることにした。山田は一流の競走馬を育ててみたいという夢を持っている。その夢に耕一は乗っかろうと思った。耕一は夢のある人間が好きだった。
「所で名前は何と付けます?」と山田が耕一に尋ねた。
「うーん、何にしましょうかね? 安田さんの馬はヤスダブルボンでしたね。自分の名前を付けてみたいですね」と耕一が言った。
「それではコーイチ何とかでどうでしょう?」と坂田が言った。
「コーイチホース、コーイチエックス、コーイチブルボン、コーイチセイコー、コーイチ・・・・・・」と山田が呟いた。
「・・・・・・ムロキカチドキでお願いします」と耕一が言った。
「・・・・・・うん、いい名前ですな。ムロキカチドキ、強そうな名前じゃないですか」
と山田が言った。
自分の名前を付けることは少し恥ずかしいのではあるが、この馬に愛着が湧く気がしてきた。勝っても負けても、これは自分の分身だと思った。
その夜、三人は深夜まで酒を飲み、サラブレッドのこと、地方競馬のこと、海外からの馬の輸入の現状、馬の性格、どのレースを狙うかなどを話し合った。耕一にとっては初めて聞く話ばかりであり、とても勉強になった。今回は馬購入代、旅行代等を含め、四千七百十五万円かかった。
支払い・・・・・・・・・四千七百十五万円
残高 ・・・・・・・・・一億五千五百三十三万五千六百五十円
ある夜、耕一はインターネットを見ながら珍しい物がないか捜していた。「火星の土地が格安で買えます」とか「カッパの皿売ります」とか「類人猿の頭蓋骨の一部をお売りします」とか訳の分からない物が販売されていた。本当に怪しい物ばかりである。火星の土地を売る権利を一体誰が持っているのだろう? だが、世の中にはこういう物を買う物好きも結構いるのだろう。
そんなことを考えながら眺めていると、「無人島売ります」という物件に出会った。瀬戸内海の一つの島で、周囲一キロほどの小島である。所有物の名前も住所やメール番号も記載されていた。島の写真もあり、夏撮したものらしく、青い海に緑の木々が映えてなかなか美しい島である。小さな砂浜もあり、海水浴もできるとのことである。値段は三千五百万円である。別荘や山を持っている金持ちはたくさんいるが、島持ちはなかなかいないであろう。一度その島を見てみたいと思い、所有者である向井雄之介という人物にメールを送った。二、三日して向井からメールが届いた。こちらへ来て実際に島を確認して欲しいとのことである。耕一は早速行ってみることにした。一応、現金も三千五百万円ほど用意した。今回は車でのんびりと二日かけて行くことにした。大阪に一泊し、倉敷を通り、そこから瀬戸内の方に向かった。住所を捜しながら行くと五百坪ほどの大きな屋敷があった。そこからは海も見えた。丁度向井雄之介は在宅していた。六十近い男であり、妻に死に別れ、息子は一人いるが、現在は一人住まいとのことである。居間の壁には釣りが趣味らしく、大きな魚拓がたくさん貼られてあった。昔は網元をやっていたことのことである。一通りの挨拶を済ませると本題に入った。
「どうして島を売ろうと思ったんです?」
「わしは釣りが趣味でしてね。よくその島で釣りをしていたんですが、病気をしてしまい、無理ができなくなってしまいましてな。それで売ろうと思ったんですよ。海水浴やキャンプもできるし、よい釣り場もありますぞ」
向井はそこで撮った写真の貼ってあるアルバムを耕一に見せた。向井だけでなく、友人たちとキャンプしている姿などが写っていた。とても楽しそうだった。
「・・・・・・確かに楽しそうですね。でも、どうやって島に渡るんです?」
「ええ、近くの漁師に頼むと連れてってくれますよ。携帯電話も使えるから便利なもんです。・・・・・・それにあの島には伝説があってね。桃太郎が征伐に行った鬼ヶ島だとも言い伝えられているんですよ。もっとも、わしはそれほど信じちゃいませんがね。だが、昔からの鬼を奉っていると言われている小さな神社が島の中心にあるから、案外嘘ではないのかも知れないがね・・・・・・」
「一度見学させて下さい」
「ええ、いいですとも。明日にでも一緒に行きましょう。一泊島に泊まってみますか・・・・・・。所で室木さんは釣りはお好きかな?」
会社をリストラされてからやることもないので、よく釣りをしていた。唯一の趣味といってもいいかも知れない。リールのやり方も上手くなり、七十メートルほどは飛ばせるようになった。
「ええ、大好きです。よく海釣りに出かけますよ」
それを聞いて、向井はにっこりした。
「そうですか。あの島は釣りにとても適した島でしてね。釣り好きに売りたいと思っていたんですよ」
その日は近くの旅館に泊まり、翌朝、島に行くことになった。キャンプ道具は向井が全て貸してくれた。二日間分の食料を持ち、向井の知り合いの漁師に頼んで島に連れてってもらった。漁船で十五分ほどで着いた。着いた所は百メートルほど続く砂浜であった。砂粒というより歯の大きさほどの小石が広がっており、その奥は松や杉などの木々が続いている。
「さて、ここでキャンプしましょう」と向井が浜に荷物を降ろしながら言った。
テントを組み立てるのに二十分ほど要した。五人用のテントであるので、ゆったりとしていた。
「では釣りをしましょう」向井は釣り道具を二つ取り出し、出かける準備をした。
「ここではないんですか?」
「ここでも連れますが、大物はこの裏の岩場ですよ。では行きましょう」
二人は木々の中を入って行った。道らしきものがあったが、ほとんどけもの道のようにハッキリとしていなかった。途中で茶室ほどの小さな神社があった。古い鳥居も見えた。
「これが鬼を奉っているという神社ですか?」
「ええ、そうですよ。ほらご覧なさい。壁に鬼が描かれてますよ」
よく見ると鬼が五匹、それぞれ武器らしきものを持って暴れている様子が描かれてあった。そこを過ぎて、しばらく進むと反対側の岩場に着いた。浜とは景色が全く違っており、岩がごつごつとして危険な感じである。
「ここでは鯛なんかが釣れますよ」と向井は言った。
二人は自分の気に入った岩場で釣りを始めた。最初はなかなか釣れなかったが、一時間ほどして向井が三十センチほどの鯛を釣り上げた。その次も向井が鯛を釣った。続けて相手が連れると焦るものである。このまま釣れないのではないかと思っていると、耕一の竿にも強い引きがあった。釣り上げてみるとスズキである。五十センチ級の大物であった。
「おう、大したものですな、スズキが釣れるとは・・・・・・。鯛よりも珍しいですよ」
と向井が驚きながら言った。
三時間ほど釣りをして向井が鯛を五匹、耕一がスズキを一匹釣り上げた。釣りを切り上げ、浜に戻り、魚を焼いて食べることにした。持ってきた酒を飲み、魚を食べながら、釣りのことや人生などについて話し合った。向井はなかなか教養のある男である。二人は意気投合した。
「室木さん、あなたはどうしてこの島を買おうと思ったんだね?」
「ええ、自然の中で過ごし、自然からいろんなことを学ぼうと思ったからですよ。まあ、独りでのんびりといる場所が欲しいからでしょうね。都会とは違いますよ・・・・・・」
「・・・・・・そうですか。実はわしはそれほど長く生きられんのですよ。遺産を受け継ぐ者はいますが、金のことしか考えていないんです。・・・・・どうです、この島を貴方にタダでお譲りたいと思いますが・・・・・・」
「えっ! タダですか?」
「でも、あることができたらですがね・・・・・・」
「それは何です?」
「この島に一週間生活するということですよ・・・・・・」
「えっ! 今からですか?」
「ええ、今から一週間です。飲み水はわしのを置いていけば一週間分はあります。工夫すれば何とか生活できますよ」
耕一はしばらく考えた。水はあるにしても食料が二日分しかなかった。あと五日分はどうすればいいのだろう?
「・・・・・・ええ、いいですよ。でもタダというのは宜しくありません。では、やり遂げたら、五百万円で購入します。駄目なら最初の値段でどうです?」
「ええ、いいでしょう。駄目なら携帯電話で連絡してください。直ぐに漁船を回しますから・・・・・・・。それから残った酒もここに置いていきますよ。では今、午後三時です。きっちり一週間後にここに来ますからね」
そう言い残して向井は漁船で帰っていった。夕日はすでに西に傾いていた。
(本当に一週間、ここで生活できるのだろうか?)
だんだんと酒がさめてきたら、心配になってきた。酒の勢いで約束したような気がする。だが、もう開始されたのである。後には引けないと思った。夜、テントの中でビスケットを食いながら、「明日のことは明日考えよう」などと呟きながら眠った。
一日目は快晴であった。まず、島のことを調べようとして、海岸線に沿って歩いこうと思ったが、崖が多く、無理である。それで島の内部に入った。食べられる木の実などが無いか捜してみたが、なかなか見つからなかった。だが、木々の間にキノコがいくつか生えていた。見たことのあるキノコであるが、キノコの知識は少なく、食えるかどうか分からない。だが、何となく食えそうな気もするので、本当に食い物が無くなったら採ろうと思った。雑草も生えているが、とてもではないが食えそうに思えなかった。やはり海の幸しかないと思い、浜に戻り、釣りをすることにした。キスが五匹ばかり釣れた。それを焼いて食べ、一日が終わった。
二日目は曇りであった。釣りだけでなく海に入って獲物を採ろうと思った。海草はたくさんあり、食べられそうなものをできるだけ採った。タコもいたが、逃げられてしまった。ウニがあり、七つ採ることができた。ラーメンと一緒に食べた。少し痩せた様に感じられる。
三日目は曇時々晴れであった。タコを食いたくなり、長い棒の先にナイフをしっかりと結び付けてヤリを作った。それを持ち、海に潜り、タコを捜した。伊勢エビがいたのでヤリを投げたら見事に当たり、掴まえることができた。魚も二匹ばかり突くことができ、エビは刺身で、魚は焼いて食べた。とても美味かった。
四日目は小雨が降り続いた。釣りをしたが何も釣れなかった。持ってきた食料が少し残っていたので、それを食べた。明日に期待しよう。
五日目は曇り時々小雨だった。海に潜り、魚を掴まえようとしたら、タコが岩場でじっとしていた。静かに近づき、ヤリで突いたら見事に命中した。醤油を付けて、刺身で食った。実に美味かった。半分は海水で茹でて取っておくことにした。
夕方から雨が激しく降り出し、海が荒れ、テントが飛ばされそうになった。ラジオをつけると台風がこちらに近づいているとのこと。危険を感じたので、必要な物を持ち、島の中に入った。隠れる所を捜したが、神社しかなかった。それで神社に泊まることにした。錆びた鍵が入り口に掛かっていたが、棒で叩いたら、簡単に壊れた。中は一人が泊まるには十分な広さだった。ロウソクがあったので火を付けた。灯りが全体に広がると、中央に丸い鏡が置かれてあり、閻魔大王らしき人物が中央の壁に描かれ、その周囲にいろんな色をした鬼が描かれていた。
(ここは地獄へ続く一里塚なのであろうか?)
などと勝手に想像した。
雨は激しさを増し、ここも危ないのではないかと思った。少し残ったビスケットとタコの足を食い、寝袋に入って眠った。
その夜、おかしな夢を見た。何匹ものこん棒を持った鬼が現れ、正座している耕一を取り囲み、激しく非難した。非難する内容はよく分からなかったが、耕一はその恐ろしさに逃げ出した。森の中を逃げていくと、別れたユキが待っていた。ユキは最初優しい顔をしていたが、だんだんと鬼の顔になり、「コウイチオジサマー」と叫びながら追いかけてきた。耕一は再び逃げ出した。次に出会ったのは、別れた妻だった。最初から鬼の顔をして鎌を持っていた。妻も追いかけてきた。耕一は崖の先端まで追い詰められ、逃げる所が無くなった。それで崖から飛び降りた。そしてそこで目が覚めた。朝の光が板の隙間から差し込み、外へ出ると晴れ渡っていた。台風は去った様である。
六日目となった。
(お腹が空いた!)
食べ物は何も残っていなかった。ふとキノコが生えていたことを思い出した。耕一はあの場所に行って、キノコを採った。三十個ばかり採れ、それを持って浜に行った。テントは風に吹き飛ばされて、岩に貼りついていた。海草を一掴みばかり採り、キノコと一緒に茹でて食べた。キノコが毒である可能性もあったが、空腹には我慢できなかった。だが、なかなか美味しいキノコである。しばらく経ってもお腹は痛くならなかった。だが、まだ腹は一杯にならなかったので、海に潜り、サザエやウニを掴まえ、生のまま食った。実に美味しかった。耕一はテントを修理して、組み直した。所々切れてはいたが、何とか寝ることはできた。テントの隙間から見える星を眺めながら、その夜は眠った。
七日目の朝、空は澄み渡っていた。約束の日である。何とか生き延びることが出来た。釣りをしながら船が来るのを待つことにした。釣れた魚は直ぐに刺身にして食べた。早く帰って、飯を腹一杯食いたいと思った。
丁度三時に漁船がやって来た。耕一は荷物をまとめ、浜で出迎えた。一週間前の漁師が一人乗っていた。
「おや? 向井さんは来ないんですか?」
「ええ、三日前に病気でお無くなりになりました」と漁師は残念そうに答えた。
それを聞いて、愕然とした。思ってもいない出来事である。あの約束は一体どうなるのだろう? 漁船を下りると、直ぐに向井の屋敷に向かった。葬式は昨晩行われていた。屋敷には洋一という一人息子がいた。
「室木さんですね?」
「ええ、そうですが・・・・・・」
「死ぬ前に父から話は少し聞いています。ところでお約束の件ですが、父は亡くなりましたので、無かったことにしてもらいたいんですが・・・・・・」
その話を聞いて、怒りがこみ上げてきた。何の為の一週間だったのか、この一週間が無意味であることに我慢ならなかった。
「・・・・・・いいでしょう。約束はなかったことにしましょう。だが、父上が言っていたことが理解できましたよ」
「それは何です?」
「遺産を継ぐ者は金のことしか考えていない、と言っていましたよ。なるほどと思います。向井雄之介さんは、実に人を見る目がおありですな」
耕一はたっぷりと皮肉を言って、この場を去ろうとした。
「待って下さい、室木さん。・・・・・・いいでしょう。島を五百万でお売り致しましょう。約束は約束です。父の遺産を継ぐ以上、約束も守らないといけませんね」
と息子は頭を下げて言った。
「いや、結構です。金の問題ではありません。信頼関係の問題です。では失礼します」
と言って、耕一は急いでその場を去った。
車を運転しながら怒りがだんだんとおさまってきた。一週間を振り返ってみると、楽しいことが幾つもあったのである。こんな危険で素敵な経験はなかなかできないことである。また何処かキャンプに行ってみたいと思った。
なお、今回、旅行費用として十万四千円かかった。
支払い・・・・・・・・・十万四千円
残高 ・・・・・・・・・一億五千五百二十三万一千六百五十円
島から帰り、今までの金の使い方を考えると、浪費ばかりで、このままでは三億円も直ぐに無くなってしまうのではないかと心配になってきた。それで真剣に儲けることも考えようとした。
耕一のできることと言えば、コンピュータ関係の仕事である。しかし、どのようにそれを生かせばよいか分からなかった。毎晩インターネットを見て金儲けのことを考えていた。すると、インターネットで株をやる人達がいることを知った。まだ小数であるが、今後増えるであろうということである。みんなが手を出し始めたらなかなか儲からないかも知れないが、今なら儲かるかも知れない。だが、先物取引のような危険なことはしたくなかった。耕一は素人である。まずは練習が必要であろう。百万円で株をやることにした。
本屋に行き、インターネット株取引とはどんなものであるかを調べた。インターネット上にも証券会社があり、それを通して株を買うのである。売り買いはパソコンでも携帯電話でもできるとのことである。そう言えば、以前勤めていた会社でも株をやっている同僚がいたが、よく携帯電話で株の相場を調べたり、売り買いをしていた。その時は大して興味は無かったが、時々儲けたという話を彼はしていた。
本やインターネット、新聞などから、ある程度の知識を得た。それでまず証券会社と契約した。振込は百万円である。それで欲しい株を買った。まずは堅実に電力会社やソニー、トヨタなどの株を百万円分買った。だが、株はなかなか上がらなかった。インターネットを見ながら、少し上がった時に売ってみた。だが、手数料を引くと五千円損をしてしまった。毎日そんなことをしてる内に手順やタイミングなどが分かり始めた。いちいち証券会社に行って、株を買うより素速く売り買いができ、儲かる確率が高いのではないかという気がする。
インターネットで株をやる連中はコンピュータのことが詳しく、インターネットの掲示板を通して、情報のやり取りをしている連中がいる。耕一もそれに参加して、彼らからいろんな情報を得た。その中に「Kサン」という男がいた。彼は株についてとても詳しく、次はこんな株が上がりそうだとかいう情報を流していた。またその情報はよく当たり、掲示板の仲間達から信頼を集めていた。だが、金を払えばさらに詳しい情報をインターネットで配信するとのことである。
一回の配信に付き、一万円である。耕一は試しにどんな内容であるか知るために一万円を振り込んだ。すると次の日、メールが届いた。それには今後上がるであろう会社株が十余り示されてあった。そして次の内容が付け加えられてあった。なお、耕一はネット上でコーウチと名乗っている。
コーウチ様
「情報をお買いあげ下さいましてありがとうございます。この十社は今後値上がりが予想されます。しかし、絶対ではありませんので、ご損をなさっても責任を負いかねませんので、その点、自分の責任でお買い上げくださいませ。
なお、さらに十万円、お支払い戴けますと、ほぼ絶対値上がり確実な株の情報をお知らせ致します。 Kサン」
「ほぼ絶対」という言葉に引っかかりを感じたが、その情報も買うことにし、十万を振り込んだ。すると早速、次の日、メールが届いた。そこにはあまり知らない会社の「中津川電気」という株が値上がりするとあり、三日以内に買いなさいと指示されてあった。
株についての質問があれば、メールを送ってもいいし、Kサンが運用しているホームページの掲示板やチャットに書き込みをしてもいいと書かれてあった。書き込みする場合は、暗証番号が必要で、誰でも見ることができるというものではなく、会員に限定されていた。
耕一はそれを信用し、中津川電気の株を五百万買った。するとどうであろう。四日後、その株は上がり始めた。でも、いつ売ったらいいのか分からなかった。だが六日後、Kサンからメールが届いた。「中津川電気の株を今日中に全て売りなさい」との指示が書かれてあった。耕一はその指示に従い、全部売った。すると次の日には中津電気の株はゆっくりと下がり始めた。
結局、諸経費等を差し引いて、二十万三千円儲けることができた。宝くじの資金を使った、初めての収益である。嬉しさがこみ上げてきた。
収入・・・・・・・・・二十万三千円
残高・・・・・・・・・一億五千五百四十三万四千六百五十円
どうしてこんなに詳しいのか不思議に思い、チャットに書き込みをしてみた。
コーウチ「Kサン 儲かりました。でも、どうして情報が正確なんですか?」
Kサン 「それは秘密です。でも、情報を手に入れやすい立場にあると言うことです」
コーウチ「証券会社の方ですか?」
Kサン 「それに近いかも知れません。コーウチさんは、株は初心者ですか?」
コーウチ「そんなもんです。でもコンピュータには詳しいんですがね」
Kサン 「ハッカーですか?」
コーウチ「いや、違いますが、ハッカーを捕まえたこともありますよ」
Kサン 「それは凄いですね。お近づきになりたいですね。ハハハハハ」
取り留めもない話が中心だったが、ハッカーを捕まえたことがあるという話には驚いている様である。あながちそれは嘘ではなかった。耕一が以前勤めていた会社は、大手の会社にコンピュータのシステムを売り込む仕事であり、そのシステムがハッカーの攻撃を受けることもあった。その場合、システムを直すだけでなく、犯人を捜したり捕まえたりすることもやっていたのである。耕一が捕まえたという訳ではないが、その専門知識は多少持っている。
しばらくして、耕一の所にKサンから文書が一通添付されたメールが届いた。
「実は、お送り致しましたこの文書を開くにはパスワードが必要です。それを忘れてしまいました。コーウチさんはコンピュータに詳しいとのことですので、是非、開いてほしいのです。これはお願いです。もし開けることができましたら、謝礼も差し上げます」
耕一はどうして自分にこんなものを送ってきたのか、その意図を図りかねた。だが、開けてみることにした。耕一もどんなことが書かれてあるか興味があった。
さて、暗証番号は六桁である。だが、これはそれほど複雑なものではなく、ハッカー達がよく使用している暗証番号解読ソフトを使えば簡単に解けそうに思った。耕一はそのソフトをコンピュータにインストールして、解読を始めた。解読まで一時間要した。中を開いて見ると、どこかの会社の決算報告書の様である。これを一旦コピーして耕一の手元におき、解読された文書をメールでKサンに送った。
次の日、Kサンからメールが届いた。
「コーウチさん、ありがとうごさいます。貴方の腕前は大したものですね。ハッカー並の技術をお持ちですね。今後も宜しくお願いします。謝礼といっては何ですが、株に関する情報を差し上げます Kサン」
メールには、文書が添付されてあり、値上がりが予想される株が書かれてあった。耕一はそれに従い、その株を八百万買った。一週間後に売り、結局諸経費を差し引き、二十万一千円儲けることができた。
収入・・・・・・・・・二十万一千円
残高・・・・・・・・・一億五千五百六十三万五千六百五十円
二週間経ち、再びKサンからメールが届いた。再び、文書を開封してほしいと書かれてあった。今回はなかなか難解なパスワードである。番号だけでなく、アルファベットも組み込まれていた。解読ソフトを何度試みても開けることができなかった。
耕一はどうしても文書を読んでみたかったので、ある男に頼むことにした。その男は、以前、耕一が勤めていた会社のプログラマーであり、財務省へのハッカー行為を行ったために警察に捕まり、会社を辞めさせられた。名前を山口隆と言い、歳は三十歳であり、耕一の部下でもあった。携帯電話番号を知っていたので、早速電話を掛けた。
携帯番号は変わっていなかった。山口は元気そうだったが、現在はアルバイトで生活しているとのことである。依頼もそうだが、耕一は一度、彼に会ってみたくなり、次の日、喫茶店で会う約束をした。
「山口くん、久しぶりだね。元気かい?」
「まあ、元気でやってますよ。室木さん、お久しぶりですね」
「所で、君に頼みたいことがあるんだけど・・・・・・」
「電話では、パスワードを調べてほしいということでしたが、どんなものです?」
「このフロッピーの中に入れておいたけど、私では開けられなかったよ。暗号解読ソフトを使用しても駄目だった」
「・・・・・・分かりました。一応預かりましょう。できたらメールで送りますよ」
「ありがとう。謝礼として五万出すよ」
と言って封筒を渡した。
「でも、まだ解読できていませんよ。できないかも知れません」
「まあ、いいさ。できなくても返す必要はないよ。でも、君ができないとは思わないけどね・・・・・・」
そう耕一が言うと、山口はニヤリと笑った。
山口とは、また会う約束して別れた。
支払い・・・・・・・・・五万
残高 ・・・・・・・・・一億五千五百五十八万五千六百五十円
翌朝、早速山口からメールが届いた。開封したとのことである。だが、この文書は、ある企業の機密文書ではないかというのである。耕一も読んでみたが、確かにそうである。ある大手電気機器会社の新製品の開発に関する文書であった。どうしてこんなものが手に入るのか不思議に思った。犯罪の匂いがした。耕一は早速、Kサンにメールを送った。
「Kサン、開封できました。しかしこれはどうも企業の機密文書の様に思います。どうしてこんな文書が手に入るか、不思議に思います。犯罪に関係しているのではないですか?よって、お送りするのは今回は遠慮します。 コーウチ」
翌日、Kサンからメールが届いた。
「コーウチさん、あの文書を開けるとは大したものです。我々の仲間でもできませんでした。でも犯罪に関係してるということはありません。それでその件について、是非コーウチさんにお会いしたいと存知ます。 Kサン」
それから、メールには会う場所と日時も書かれてあった。来週の日曜日、午前十一時に上田動物園の中にある夜行動物館。目印として、お互いスポーツ新聞を持って来る、とあった。
約束の日、耕一は早めに動物園に行き、園内を巡った。久しぶりの動物園である。息子が小学生の頃、一度来たことがあった。そういえば忙しさにかまけて家庭サービスをほとんどしていなかったことに気づいた。今となっては仕方ないことであるが、家庭崩壊の要因は耕一にあったのかも知れないと思った。そんなことを考えながら約束の時間が来るのを待った。
その時間となったので、夜行動物館に行った。中は薄暗く、あまり人はいなかった。コウモリを眺めていると、後ろから声がした。
「コーウチさんですね?」
後ろを振り向くと三十歳中頃の男が立っていた。スポーツ新聞を持ち、背広を着て、薄いサングラスを掛けいいた。
「ええ、そうですが、Kサンですね?」
「ええ、Kサンと言います」
二人は近くの長椅子に横向きに座り、会話した。
「ところで、あの文書は持ってきましたか?」
「いいえ、今日は持ってきません」と耕一はとぼけた。
「そうですか。困りましたね。どうしてもそれが欲しいんですよ、我々の組織はね・・・・・・」
組織という言葉を聞いて少しドキリとした。大きな組織なんであろうか、もしかしたら、やくざ組織ではなかろうか、などと心配になってきた。
「あれは機密文書なんでしょう?」
「いいえ、違います。・・・・・・二十万出します。これでお願いします」
Kサンは、封筒を耕一に渡そうとした。耕一はそれを断ると、
「文書を渡してもよろしいのですが、これでつき合いはお断りいたします。実は文書は持ってきてます」
「・・・・・・ええ、いいでしょう。渡してもらえれば、それで結構です」
耕一はそれを聞いて、文書の入ったフロッピーをKサンに渡した。Kサンは礼を言って、封筒を耕一の手に握らせた。耕一も敢えて断らなかった。Kサンはそのまま、外に出て行った。
Kサンが出て行ってから、しばらくして耕一も外に出た。すでにKサンはいなかった。耕一はそのまま動物園を出た。食事をしようと思い、近くの食堂に入った。だが、誰かに付けられている様な気がした。それで、車に乗らず、しばらく街を歩き回った。ちらちらと後ろを見ると、Kサンとは違う若い男が耕一を付けていた。耕一はまこうとして、デパートのエレベータに乗り、三階で降りて直ぐに隣のエレベーターに乗り、地下へ降りた。そしてそのまま駆け出して、何とか男をまくことができた。
収入・・・・・・・・・二十万円
残高・・・・・・・・・一億五千五百七十八万五千六百五十円
家に帰るとメールが届いていた。Kサンからである。
「コーウチさん、よくまくことができましたね。しかし、我々の組織から逃れることはできませんよ。あの文書は、確かに企業秘密が書かれています。あの文書を解読した以上、貴方も犯罪の一翼を担ったということです。これからも強力してもらいますよ。貴方の技術を高く評価していますので・・・・・・。
豊田ネット株取引協会」
耕一は怖くなった。だが、犯罪行為だけはしたくなかった。どうしたら逃げることができるか考えたが、山口の顔がふと浮かんだ。彼はコンピュータの専門家である。彼に相談すれば何かいい方法を考えてくれるのではないかと思い、携帯電話を掛けた。そして次の日、耕一のマンションに来て貰った。
「室木さん、凄いマンションに住んでいるんですね」
「株で少し儲けたからね・・・・・・。そんなことより困ったことがあるんだ」
耕一は今までの出来事を全て説明し、どうしたらよいかを相談した。
「所で、そのKサンのホームージは分かってるんですよね?」
「ああ、分かってるよ」
耕一はパソコンでそのホームページを示した。
「ここを攻撃しましょう。Kサンのコンピュータを破壊すればいいんですよ。そうすれば、何もできませんよ」
「そんなことができるのか?」
「ええ、比較的簡単にできます。相手の場所を調べるのはそれほど大変なことではないですよ。彼らはコンピュータのプロというほどではないと思います。このホームページを見ると、隙がありすぎますね」
「どうやって壊すんだ?」
「メールに最新のウイルスを入れて、送りましょう。これで恐らく破壊できますよ」
「でも、それから足がつくことはないのか?」
「大丈夫です。こちらの住所を隠して送りますから・・・・・・」
そう言うと、あるアングラサイトから最新のウイルスを仕入れてきた。
「ウイルスが簡単に手に入るのか?」
「ええ、ウイルスをただで配っているサイトがありますから、そこから持ってくるんです。しばらく待ってて下さい」
山口はパソコンに向かって二時間ばかりいろんなことをやっていた。
「さて、準備はできました。送りますよ。いいですか?」
「ああ、いいよ」
山口はパソコンのメール送信のキイをポンと押した。
「これで終了です。Kサンのパソコンは、この地上から消え去ります」
本当にそうなのか半信半疑であったが、山口は自信満々である。それから、山口は耕一が加入しているブロバイザを直ぐに変えた方がいいと言い、それも山口がやってくれた。
「これでKサンとのつながりは全く無くなりましたよ」
「本当に大丈夫か?」
「ええ、相手はそれほどのもんじゃありません。第一、あの程度の文書を開けないようでは、大した組織じゃないですね。でも、しばらく様子を見ましょう」
一週間後に再び会う約束をして山口と別れた。
三日して、Kサンのホームページを見た。だが毎日更新されていたページが全く更新されておらず、掲示板にもKサンの書き込みは全くなされてなかった。インターネット上からKサンの存在が消えてしまった様である。本当に山口の技術の高さには驚いてしまった。 だが、五日後、ある株サイトの掲示板にKサンからの書き込みがなされた。
「私のパソコンがハッカーにより攻撃を受け、データが破壊されてしまいました。関係者の方々にご迷惑をおかけしました。甚だ申し訳ございません。さて、このような行為は犯罪です。この犯罪者を許すことができません。『インターネット警察』に捜査をお願いしました。ハッカー君、覚悟したまえ。必ず見つけ出し、必ず制裁を加えます。
Kサンより」
この書き込みを見て耕一は震え上がった。直ぐに山口に連絡を取った。山口はその日の夕方、耕一のマンションにやって来た。
「山口くん、どうしよう? 警察が我々を捜しているぞ!」
「これは警察ではありませんよ。インターネット警察というのは民間の団体でしてね。ハッカーくずれが何人か集まって、金稼ぎでやっている団体ですよ。警察とは何の関係もありません」
「・・・・・・そうか。だが、相手は一応プロなんだろ。いつかは見つけられてしまうんじゃないかな?」
「どうでしょうねぇ。しかし、私が彼らなら見つけることができますよ」
「山口くん、どうしたらいいのかね?」
「そうですね。彼らを始末しましょう」
「彼らとは?」
「インターネット警察を気取っている連中のことですよ」
「そんな恐ろしいことはできんよ」
「始末するといっても、彼らのパソコンのデータを吹き飛ばすだけですよ」
「そんなことができるのかね?」
「ええ、できますよ。彼らはアマチアに毛の生えた様な連中ですよ」
と言って山口はニヤリと笑った。
山口はパソコンを一台貸してくれと言った。次の日、さっそく電気店よりパソコンを購入した。山口はそれに向かうといろんなソフトをインストールしていた。三時間ほどして耕一を呼んだ。
「匿名でプロバイサに加入させてもらいました。名前は山之内一郎にしました」
「そんなことが勝手できるのかね?」
「上級のハッカーはみんなやってますよ。実名で加入するようではまともなハッカーとは言えません」
「では、このパソコンを彼らに呉れてあげます。彼らがこのパソコンに侵入してきます。そしてこのパソコンのデータを盗もうとします。もちろんデタラメなデータですがね。我々がどんな連中か調べようとするんですよ。その時、かれらは足跡を残します。それを逆に追えば、彼らの位置がつかめるということです。恐らく彼らはこのパソコンを破壊するでしょうがね・・・・・・」
「では、やってみてくれたまえ」
「彼らに山之内一郎がKサンのパソコンを破壊したと掲示板で吹聴します。また破壊してやるぞ、とでも書き込みましょう」
「まあ、好きなようにやりたまえ」
山口はパソコンに向かうと、カチャカチャと書き込みをしていた。
「・・・・・・さて、いいですか、来ますよ。・・・・・・ほらやってきた。彼らがインーネットを通じて、このパソコンに侵入してきました」
画面には計算式の様なものが次々と現れては消えた。
「もうすぐです。彼らの位置が分かります」
パソコンに接続してあるプリンターが突然動き出し、文字や数字をはじき出した。
突然、メール機能がおかしくなった。大量のメールが送り込まれてきた様である。それから直ぐに画面がおかしくなり、ゼロと一の数字が画面の上から降るように、データが崩壊し始めた。
「もうすぐ壊れます」と山口が言うや否や、画面が暗くなり、反応しなくなった。
「さて、中身のテータは全て破壊されました。でも心配する必要はありません。機械本体が壊れたということではありません。もう一度、基本ソフトを再インストールして、買ってきた時の状態に戻します。しばらく待っていて下さい」
山口はパソコンに向かって、再びいろんなソフトをインストールしていた。
「さて、今度はこっちが攻撃しますよ。最新のウイルスの改良型を相手に送り込みます。このウイルスを駆除するワクチンソフトはまだ開発されていませんから、感染されたら終わりです。とても強力ですよ、このウイルスは・・・・・・」
山口はパソコンに向かって何か操作していた。しばらくすると、
「では、室木さん。この終末ボタンを押して下さい」
と言って山口はエンターキイを示した。
「これを押すとどうなるんだ?」
「ええ、インターネット警察が消滅します。さあ、どうぞ」
耕一は少し躊躇したが、思い切って押した。するとデータがすっと左右に流れた。
「はい、終了です。ご苦労様でした。では、山之内一郎もこの虚構世界から消します。これで証拠は完全に消滅です」
本当にこれで大丈夫なのか少し不安ではあったが、山口のハッカーとしての技術の高さには関心した。その後、インターネットを眺めていたが、彼らは姿を消したように感じられた。
一週間後、山口を一杯飲みに居酒屋に連れて行った。謝礼として三十万支払った。とても嬉しそうに受け取っていた。
酒を飲みながら、会社を辞めてから何をしているかなどを山口に聞いた。彼は現在、キャバレーの呼び込みをしているとのことである。警察に捕まってからまともな会社には勤められず、田舎にでも帰ろうかと思っていたそうである。
「君の知識や技術を生かせば、まだいろんなことができるんじゃないのか?」
「でも、前科一犯でしてね。資金も信用もありませんよ。儲けるアイデアはあるんですがね・・・・・・」と言って笑った。
「えっ? 一体どんなアイデアだね?」
「それはですね・・・・・・」
女の子を使って「チャットルーム」をいくつか作り、若い男性を対象に商売しようというものである。なかなかおもしろそうに思えた。
「所で、どうして室木さんはこんなに景気がいいんですか? 本当に株で儲けたんですか?」
「いや何ね、実は親の遺産が転がり込んだからだよ・・・・・・」
「それは羨ましいですね。会社も辞めたんですか?」
「ああ、リストラされたよ。妻とも別れてね・・・・・・」
「そうでしたか・・・・・・」
山口がどこまで信じたか分からない。だが、山口と商売してもいいと思った。彼の才能を耕一はよく知っている。ハッカー行為さえしなければ、会社でも出世していたかも知れない。
「山口くん。資金は私が出すから、一つそのチャットルームをやってみないか?」
「えっ! 本当ですか! それは嬉しいです」
この次に会うまでに、具体的にどんな風にするのか、山口が計画書を作ってくることになった。山口は生き生きとして眼を輝かせていた。勤めていた頃の山口に戻った様に見えた。
会社の社長は室木がなったが、山口は専務その他諸々というとにした。なお、飲み代と山口への謝礼として三十一万三千円かかった。
支払い・・・・・・・・・三十一万三千円
残高 ・・・・・・・・・一億五千五百四十七万八千六百五十円
五日後、山口は計画書を持ってきた。オフィスビルの一角を借りて、若い女を五人雇い、それぞれの女に魅力的なホームページを作り、お客を勧誘するというものである。部屋は仕事場とベットのある休憩室、事務室の三室を予定した。女は山口が捜すことになった。耕一はオフィスビルを捜し、パソコンを何台か用意することになった。
オフィスビル捜しは、安田に頼んだ。街外れの目立たない場所を借りることができた。現在は不況でオフィスビルはたくさん空いており、比較的安い値段でその一角を借りることができた。それから総合電気店に行って、最新のパソコンを六台、プリンター、デジタルカメラ、画像処理ソフトなどを購入した。また大手のプロバイザとも契約した。女以外はほとんど用意できた。
しばらくして、山口から五人の若い女を確保できたと連絡があった。三人は水商売の女であり、あとの二人は学生とのことである。五人には借りたマンションで会うことにした。一人ずつ時間をずらし面接することにした。
一人目は、内藤さゆりといった。チャット名はユリとした。水商売をしており、年は二十一歳である。髪を栗色に染め、清楚な感じの中に色気があり、中年男を魅了する雰囲気を持っている。この女はなかなかいいと思った。
二人目は、若井春菜といった。チャット名は「ナナ」とした。水商売の女であり、少し暗い雰囲気ではあるが、それなりに魅力はある。こういう女を好む男もいるだろうと思った。
三人目は、成井美奈子という学生である。チャット名はミナとした。収入がいいということで、申し込んだそうである。この商売の趣旨は理解しており、厚化粧なら肌や顔を出すことにためらいはないとのことである。
四人目は、佐藤利恵という水商売の女である。チャット名はケイとした。三十歳近くであり、男慣れしている雰囲気があった。若いだけでなく、年上の女を好む男もいるであろう。
五人目は、仲間美紀という学生である。チャット名はミイとした。若くてとてもピチピチしていた。山口とは仲が良いようで、もしかしたら山口の彼女なのかと思った。山口に確認したらそんなことは無いと笑って否定した。
美奈子(ミナ)と美紀(ミイ)の二人は、学生としてそのまま売り出し、水商売のさゆり(ユリ)と春菜(ナナ)の二人もその商売で売り出すことにした。利恵(ケイ)は、OLとして売り出すことにした。
それぞれの女達の個性や特徴を大切にしてそれぞれのホームページを作成することにした。女達の写真は山口が撮った。撮影場所は公園、オフィスビル、飲屋街、女達の部屋、大学のキャンパスなどである。服装はそれらしい格好をしてもらった。そして個々のホームページに写真を貼り付け、それぞれチャットルームを作成した。チャットルームを通して、好みの女と会話ができるのである。「東京チャット協会」と名付け、いくつかの掲示板に宣伝した。給料は時間給であるが、原則として6時間の不規則勤務とした。女がいない場合は、山口が女に代わって会話することにした。俗にいうネカマである。
最初なかなか接続がなかったが、口コミで二人三人と増えていった。人気は美紀とさゆりであるが、それぞれの女達にも客が付いた。
会社設立まで結局、五百二十万六千七百円要した。
支払い・・・・・・・・・五百二十万六千七百円
残高 ・・・・・・・・・一億五千二十六万五千九百五十円
ある日、学生のミイへの接続があった。サムと名乗る男である。あいにくミイがいなかったので、山口が応対することになった。耕一もその場にいたので、背後から、ネカマがどんな風に会話するのか興味津々で眺めた。
サム「ミイちゃん、コンニチワ」
ミイ「サムさん、久しぶりネ」
サム「所でミイちゃんは、学校じゃないの?」
ミイ「今日は授業がないの。今、料理を作っている所なの」
サム「何を作っているの? ミイちゃんの手料理食べてみたいな」
ミイ「オムレツを作っているわ」
サム「ミイちゃんの手料理か。ミイちゃんより美味しいの?」
ミイ「そうね、ミイも美味しいわ。タ・ベ・ゴ・ロ・ヨ。なんてね(笑)」
サム「ミイちゃんのどこが一番美味しいの?」
ミイ「そうね。何処かしら。みんなからは唇が可愛いって言われるわ」
サム「唇か、吸ってみたいな」
ミイ「いやーん。私、男の人から今まで吸われたことないの」
サム「カマトトぶってるんじゃない?」
ミイ「そんなことないわ。わたし、ショジョよ」
サム「えっ、本当かい? 実は俺もドウテイなんだよ」
ミイ「えっ、えっ、えっー。信じられなーい」
こんな会話がずっと続いた。男を喜ばす技術は大したものである。チャットが終わってから、山口に尋ねた。
「なかなか上手いじゃないか」
「ええ、私も以前騙されていたからですよ。男が女に成りすますことなんてよくあることです。性別だけでなく、年齢なんかもごまかすケースが多いですよ」
「だが、相手は信じているのかな?」
「ええ、大抵は信じてますね。自分だけは騙されないと思い込んでいるんですよ。ただ騙されたと分かったら、大変ですがね。相手の気持ちを弄ぶようなものですから、ハッカー行為を働く者もおります。ですから、慎重にチャットしなければいけません。日頃から彼女らの会話をよく調べておかないと、バレることもあります」
「なかなか大変だな。私にはできそうもないよ」
「そんなことはありませんよ。そんなものだと割り切ればできますよ」
ネットの世界は虚構であるとよく聞くが、全くその通りだと実感した。この世界は今後も広がっていくのだろうが、人間の精神そのものが虚構に支配されるのではないかと想像した。だが、商売的にはそれなりに成功しつつあった。山口の経営の巧さはなかなか大したものである。やはり才能のある男である。この男なら投資しても大丈夫に思えた。
ある日のことである。山口がある提案をした。
「この商売はそれなりに上手くいってますが、まだ大儲けできるというほどではありません。実はもっと儲かることがあるんですが・・・・・・」
「それは何かね?」
「ええ、実は私の仲間でIT関係のベンチャー企業を立ち上げようとしている者がいるんですよ。しかし資金が足りなくて・・・・・・」
「具体的にはどんなことをするんだ?」
「ネット上で小説なんかを販売するんですよ。これからは、紙の本を買って読む時代からネットで読む時代となります。本よりも薄くて軽く、また何日も充電しなくてもいいパソコンがもうすぐ登場します。公園のベンチに座って、本型パソコンを開き、読書する時代がもうすぐ来ます。だが、まだそれほど手を出していません。必ず儲かります。室木さんに是非強力して欲しいんですが・・・・・・」
「その仲間というのは、どんな人かね?」
「はい、河内光太郎と言うんです。小説家志望の男なんですがね。有名な文学賞のコンクールで最終候補にも何度か残ったこともある奴です。是非会って下さい」
次の日、ここに彼を呼ぶことになった。年齢は山口隆とほぼ同じで、二十九歳である。髪を伸ばし、少し汚い格好をしていた。
「室木さんのことは隆からよく聞いています。宜しくお願いします」
「君はどんなことをやってみたいんだね?」
「ええ、私は小説も書いているんてすが、現在、インターネットで小説を発表している若者が結構いるんですよ。その中には才能のある者もたくさんいます。彼らに発表の場をインターネットで提供したいと思います。ですが、アイデアはあっても資金が無くて、困っていたんですよ」
「そのアイデアとは、具体的にどんなものだね?」
「はい、まずインターネット上でコンクールを行いたいと思います。もちろん賞金付きです。これがないとそれほど集まらないと思います。一等賞金百万でいいと思います。入選なんかもあっていいかも知れません。宣伝もしっかりと行わないといけません。それで販売権を取ってインターネット上で買ってもらいます。・・・・・・そうですね。一冊三百円くらいでいいんじゃないでしょうか。いや、入選作品なら二百円でもいいかも知れません。そして、いい作品をたくさん集めて、インターネットでしか読めないネット本屋を造るんです。上手くいけば、角山書店よりも大きくなりますよ」
耕一はそのアイデアを聞き、ひょっとして上手くいくんじゃないかと思った。
「なかなかおもしろいじゃないか。やってみるのもいいね。どうだね、山口くん」
「ええ、いいんじゃないでしょうか。あのう、実はお願いがあるんですか・・・・・・」
「何だね? 山口くん」
「実は、こいつ、いや、光太郎は住む場所がないんです。今住んでいるアパートを金が無いために追い出されそうで、ここに住み込みで働くという訳にはいかないでしょうか? 電話番をさせます。もちろん、チャットの方も手伝わせます。ここはなかなか広いので、一部屋与えてやってくれないでしょうか?」
その話を聞いて、少し驚いてしまった。売れない小説家は貧乏人が昔は多いと聞いていたが、今も変わりないのであろうか。
「まあ、いいだろう。ここを手伝うというのなら・・・・・・」
「ありがとうございます。室木さん、一生懸命働きますので宜しくお願いします」
と言って河内は頭を下げた。山口も喜んでいた。
早速次の日、オフィスに河内は引っ越してきた。生活道具はほとんどなかった。どんな生活をしていたのだろう? 一番奥の空いている部屋を貸した。
次の日から、仕事に取りかかった。まず会社を設立することにした。社名は「ネットブック室木」とした。室木が社長で、河内は専務、山口は常務ということになった。「東京チャット協会」とは別会社とすることにした。まず、その会社のホームページを立ち上げた。コンテンツは山口がセンスよく仕上げた。そのページだけを見ると大企業にも負けぬくらい立派である。
次に「インターネット二十一世紀賞」というタイトルでコンクールを発信することになった。最初は小説一般で募集しようとしたが、山口がミステリー物が受けるというので、それを中心に募集しようと主張し、結局、ミステリー部門とそれ以外の一般部門の二つで募集することになった。両部門とも大賞は耕一の指示で三百万円とした。入選でも三十万円である。二百枚以上とし、審査委員長として、ミステリー部門ではミステリー作家の柳龍三郎氏を、一般部門では直木賞作家の藤沢修一氏にお願いした。応募懸賞の雑誌にも連絡し、宣伝できる所は全て通知し、期限は半年後とした。河内と山口は生き生きと仕事をしていた。
賞金とは別に、経費として四百五十三万六千円かかった。
支払い・・・・・・・・・四百五十三万円六千円
残高 ・・・・・・・・・一億四千五百七十二万九千九百五十円
ある日のことである。久しぶりに絵描きの中川和也から電話があった。中川の絵が現代幻想美術展で大賞を取ったので、次の日曜日、是非見に来てほしいとのこと。それから別の話もあるということだった。知り合いの絵描きが有名になることは嬉しかった。ひょっとしたら耕一が持っている彼の絵に値打ちが出るかも知れないと思った。
約束の日、展覧会が行われている美術館に行った。たくさんの人々が見学に来ていた。特に中川の絵の周りには人々が集まっていた。絵は戦場らしき所に、裸の女らしき人物が立っていた。だが緑色をしていた。「蛙女かな」などと思うと少し笑いがこみ上げてきた。 中川が後ろから声を掛けてきた。
「久しぶりですね、室木さん」
「やあ、おめでとう。大賞とは大したものだね」
「ええ、まあそうですね」と中川は否定しなかった。やはり芸術家である。自分に自信を持っているのである。
「・・・・・・あのう、実は室木さんにお願いしたいことがあるんですが・・・・・・。ここでは何ですから、別の場所に参りましょう」
耕一は中川に連れられて、近くの喫茶店に行った。
「所で、絵でも買って欲しいということかい?」と耕一は率直に言った。
「いいえ、違います。でも少し似てるかも知れません。実は私の知り合いに冒険家がいます。元は私と同じ道を志していたのですが、画家志望を諦めて冒険家になったんです。そいつが今度アメリカに、ヘリウムを詰めた気球に乗って行く計画を立てているんですよ。凄いでしょう」
「まあ、確かに凄いことかも知れないが、それでどうしたいの?」
「ええ、凄いんですが、資金が少し足りなくて、もちろん、タダで出して欲しいとは申しません。室木さんは確か社長さんでしたよね。室木さんの会社の宣伝もしたいと思っています」
「どうやってかね?」
「ええ、気球の表面に室木さんの会社の名前を入れようということです。マスコミやテレビの話題になるし、絶対いい宣伝になりますよ」
その話を聞いて、これはおもしろいと耕一は思った。「ネットブック室木」は知名度が低く、コンクールも今一つ知れ渡っていない。上手く気球が太平洋を渡ることができれば、とてもいい宣伝になると思った。
「どれくらい足りないのかね?」
「ええ、五百万ほどなんですが・・・・・・」
少し宣伝費としては高いと思ったが、冒険に金を出すのも面白いと思った。
「まあ、出すかどうかはその人物に会ってから決めましょう」
「ええ、もちろんですとも。今度の水曜日、気球を造っている工場に一緒に行きましょう」
耕一はオフィスに戻り、山口と河内にその話をした。すると二人は大変乗り気であった。
どうも山っけのある二人である。だが、本当に気球で太平洋横断ができるのか、半信半疑であった。
水曜日、耕一は中川に連れられて、気球工場に出かけた。工場といっても倉庫を改造した程度のものである。その工場に男が一人で気球を造っていた。年は三十歳を少し越えたくらいで、あご髭を生やし、赤いバンダナを巻いていた。作業着がペンキで汚れていた。
「こちらは冒険家の西山涼一と言います」と中川が耕一に紹介した。
「・・・・・・どうも、西山です」と言って、軽く頭を下げた。
口数の少ない男である。だが、眼光は鋭かった。
「太平洋横断するそうですね。勝算はありますか?」と耕一が尋ねた。
「やってみなければ分かりません。しかし、命を賭けてますんで・・・・・・」
命を懸ける、という言葉に強く惹かれた。耕一は今までの人生で命を賭けるということは全く無かった。命を賭ける男に投資する、これは面白いと思った。耕一は投資することに決めた。
「投資しましょう。是非頑張って下さい」と耕一は最後に言った。
「ありがとうございます」と西山は少し照れ笑いしながら言った。
「では、どのように宣伝文字を入れましょう?」と中川が耕一に尋ねた。
「ネットブック室木、と入れて下さい」と耕一が答えた。
「それだけでいいんですか。二十一世紀の書店、という言葉も追加しましょう」と中川が言った。耕一はそれでいいと言った。
「それから、デザインは私の方で担当します」と中川が言った。耕一は「あまり、シュールにならないように」と念を押した。中川は笑っていた。
決行は二ヶ月後ということになった。「気球で太平洋横断」というニュースは徐々に広まり、マスコミにも紹介されるようになった。
決行の一週間前に実験飛行することになり、耕一を乗せてくれることになった。完成した気球はとても大きく、描かれた色彩は美しいが、やはりよく分からない模様である。だが、会社名は赤でしっかりと目立つように描いていた。耕一は高い所が苦手であるが、地上の景色は不思議な感じがした。車や建物がおもちゃに見え、人間が人形に見えた。人間とはちっぽけな存在なんだと実感した。
銚子の先端、犬吠埼から出発することになった。マスコミも集まり、テレビでも紹介された。無謀な計画だと非難する新聞もあった。しかし、上昇気流にうまく乗れれば可能だと西山は考えていた。昔の日本軍の風船爆弾の幾つかはアメリカに届いているのである。勝算は十分ある。
出発の朝は快晴であった。「未来号」と名付けられた気球はゆっくり上がっていった。西山は下のみんなに大きく手を振っていた。にこやかな、とてもいい笑顔をしていた。我々も両手を振って見送った。
三日後、気球との通信が途絶えた。その後どこからも気球の情報は寄せられなかった。海の藻屑となってしまったと人々は噂し、マスコミは人迷惑な男だと書き立てた。だが、彼は今でも何処かで飛行しているのだろう。耕一はそう信ずることにした。
支払い・・・・・・・・・五百万円
残高 ・・・・・・・・・一億四千七十二万九千九百五十円
「東京チャット協会」も軌道に乗ってきた。女の子も五人増やすことができた。信用のおける女には、ノート型パソコンを持たせ、家でチャットしてもよいこととした。そうすればいちいちオフィスまで来なくても仕事ができるのである。効率的である反面、怠けることもでき、一長一短である。
なお、収益も上がるようになり、耕一の生活費は宝くじの賞金ではなく、これから得ることができるようになった。
河内は店番やチャットをしながら、小説を書いていた。「自分のは純文学である」と言っていた。
「そんなものは売れないな。ミステリー物でも書いた方がいいぞ」
とからかい半分で山口は助言した。耕一は山口が今まで書いた作品を読ませてもらった。耕一は素人であり、文学の善し悪しはそれほどよく分かる訳ではないが、なかなかいい線をいっている様に感じられた。人間の感情の描き方がとても上手である。だが、これが売れるとは思えなかった。山口の言うことに一理ある様に思えた。
締め切りが近づくに従い、小説が次々に集まってきた。相当の量であり、三人だけで読むのはとても困難である。それで下読みをする人をアルバイトで雇うことにした。チャットのアルバイトのミナは文学部の学生なので、同じ学部の学生を五人紹介してもらった。彼らに分担して作品を読んでもらい、それぞれの作品に対して、批評をしっかりと書いてもらった。
結局、締め切りまでにはミステリー部門で二百十三作品、それ以外の一般部門で四百三十六作品集まった。アルバイトの学生たちと話し合い、それぞれの部門で十二作品を候補として選び、それをプロの作家の柳龍三郎氏と藤沢修一氏に選んでもらうことにした。
ミステリー部門担当の柳氏は、どこかで見たような作品が多く、大賞は出さない方がいいという意見であった。それで優秀賞一点、入選二点、佳作三点とした。一般部門担当の藤沢氏は大賞候補として、下村一塊の作品を推してきた。その他は入選二点、佳作四点でよいという意見であった。だが、大きな問題があった。下村一塊は河内光太郎のペンネームである。このことを耕一は河内から聞いていた。耕一も応募することに許可を出したが、まさか大賞候補になるとは思わなかった。審査の段階でも一般部門の審査から河内を外していたし、耕一は河内の作品を一切推すことはなかった。藤沢氏に高く評価されたいということである。このことは山口も知らないことであり、二人だけの秘密である。耕一は最終責任者として、大賞を下村一塊の作品に与えることとした。耕一は、河内の才能の高さに少なからず驚いた。河内は大賞辞退を申し出たが、却下した。「辞退するくらいなら最初から申し込むな」と耕一は叱った。
大賞に三百万、優秀賞に百五十万、入選に三十万、佳作に十万としてインターネットや雑誌に発表した。河内に与えらる三百万の内、二百万は会社の運営資金として活用してくれるよう、河内から申し出があったので、そうすることにした。さて、これらの作品をインターネットで公開した。大賞と優秀作品は三百円、入選作品は二百円、佳作は百円で販売することにした。どれくらい儲かるかは全く分からなかった。利益よりも将来の可能性に賭けるという視点で取り組むべきであろうと耕一は判断した。
支払い・・・・・・・・・六百四十万円
残高 ・・・・・・・・・一億三千四百三十二万九千九百五十円
今回のコンクールで作家の藤沢修一氏と親しくなることができた。彼は四十歳であり、髪を少し伸ばし、痩せ気味ではあるが、会話に勢いのある男である。安田が経営するシュブールに河内と山口と共に藤沢を連れて行き、酒を振る舞い、何人かの可愛い女の子も付けて接待した。藤沢はとても喜んでくれた。藤沢の文学はどちらかと言えば純文学であり、それなりに名前は知られているが、売れっ子作家という訳ではない。純文学は不遇なのだそうである。今はエンターティメントやミステリー作品が好まれており、この傾向はずっと続くだろうと言っていた。
安田が途中から割り込んできた。安田は耕一が作家の藤沢と知り合いであることに驚き、交友関係の広さに敬服していた。安田も藤沢と知り合いになりたいらしく、サービスとして酒をどんどん追加した。
藤沢は映画にも興味があり、自分のメガホンで映画を撮ってみたいと言っていた。
「いいかね、映画はまず脚本が重要なんだよ。いくら名優を使っても脚本が悪ければつまらん映画しかできないね」と藤沢は言った。
「たしかにそうですね」と耕一が相づちを打った。
「そうだよ。脚本は既に素晴らしい物ができている。直木賞を取った『逃亡』という私の小説から仕上げたものだ」
耕一は賞の審査員をお願いする時に、この小説を読んでいた。銀行に勤めている真面目な中年男がサラ金会社の社長を騙して大金を奪い取り、好きな若い女と逃避行し、結局は女にも捨てられ、最後は追い詰められて一面の向日葵畑で自殺するという破滅的内容のものである。
「脚本の次に大切なものは何だと思うかね?」とその場の人達に藤沢は尋ねた。
「やはり役者でしょうな」と安田が答えた。
「監督でしょう」と山口がすかさず答えた。
「いいや、資金だな。これがないと役者も雇えないし、ロケにも行けないんだよ」
と藤沢が言った。
みんな頷いた。藤沢は資金を出してくれる方を捜しているとのこと。金の話になると、みんな後込みするそうである。その話が出た時、
「室木社長、資金を出しては如何でしょう」と真剣な眼差しで河内が言った。
「室木社長、映画作りをやりましょう」と山口が言い、
「室木さんなら簡単に出せるでしょう」と安田が酔っぱらって無責任に言った。
耕一は興味が湧いたが、どれくらい資金が掛かるのか知りたかった。
「どれくらい掛かるんですか?」と耕一が尋ねた。
「そうだね、四千、いや三千万もあればいい作品ができるだろうね」と藤沢は答えた。
「実際に始めると、さらに金が掛かるのではないですか?」と耕一は言った。
「いやいや、計画的に行うので、オーバーすることはないですよ」
と藤沢は笑いながら答えた。
「ではやってみますか」と耕一は言ってしまった。酔っていなければもう少し慎重に考えたかも知れない。それを聞いて藤沢だけでなく、周りの酔っぱらい達も喜び拍手した。みんな酔っぱらっていたので、気が大きくなり、直ぐにでもやろうということになった。
安田は、「あのう、わしも出してもらえないでしょうか。ちょい役でも結構ですので・・・・・・」と藤沢に頼んだ。
「ああ、いいよ。悪徳金貸しの社長という役でどうだい」と冗談半分で言った。
安田は、「あっ、ええ、いいですよ」と答えた。出られるなら何でもいいという雰囲気である。
「所で、室木さん。貴方にはプロデューサーになって戴き、私は監督兼脚本家ということで如何でしょうか?」
耕一はプロデューサーという言葉を聞き、心が時めいた。社長という言葉よりはるかに魅力的である。
「ええ、いいでしょう。撮影はいつから始めますか?」
「そうですね。まず役者を選ばなくてはいけません。所で、室木さんの会社には若い女の子がたくさんいましたよね。たしかユリちゃんとか言ったかな・・・・・・」
チャットのアルバイトをしている内藤さゆりのことだろうと思った。彼女は水商売が本業だが、こちらの方が本業になりつつある。中年男性に受けるタイプである。耕一も気に入っていた。
「ええ、いますよ。今度面接でもしましょう」と耕一が言った。
「そうですね、本格的に役者捜しをやりましょう。私としては有名な役者を使うつもりはないんですよ。出演料だけで制作費を食ってしまいますからね。才能のある新人を中心に使おうと考えています」と藤沢は言った。
「あのう、やくざなんかも出てくるでしょうか?」と安田が口を挟んだ。
「ええ、必要ですよ。サラ金会社の悪徳社員が出てきますからね」と藤沢が答えた。
「なら、内の黒木と中井はどうでしょう。シュブールのバーテン兼用心棒をやっている奴らでしてね。こういう役ならぴったりだと思いますよ」と安田が言った。
確かに彼らなら、はまり役だと耕一は思った。安田は二人を呼んで藤沢に会わせた。彼らも乗り気の様に見えた。
「藤沢先生、彼らを使ってくれませんか?」と耕一は頼んだ。ユキの件でお世話になった二人である。
「ええ、サラ金の悪徳社員として相応しい感じの二人組ですね。・・・・・・いいでしょう。出てもらいましょう」
黒木と中井はいつもは強面であるが、その時ばかりはニタリと笑って喜んでいた。耕一と藤沢に礼を言っていた。
「それから、キャバレーも撮影現場として使いたいんですが、安田さん、ここを使わせてもらえないでしょうか?」と藤沢が頼んだ。
安田は二つ返事で了解した。ここの宣伝にもなると言って喜んでいた。ここのホステスも一緒にちょい役で出演することになった。結局みんな映画に出ることになり、映画の成功を祝って乾杯した。
三日後、藤沢は耕一のオフィスにやって来た。さゆりに会うためである。耕一はさゆりに前の日に映画出演のことを伝えていた。さゆりは少し考えていたが、藤沢にまず会ってみたいと言った。
藤沢はさゆりをじっくりと眺めながら、たくさんの質問をした。「彼氏がいるか?」とか、「好きな人がいるか?」などと余計と思える質問もしていた。そして、「最後にやる気はあるか?」と質問された時、「ええ、やります」と元気よくさゆりは答えた。水商売とチャットは辞めて、女優修行をしっかり行ってもらうことになった。藤沢が個人的にレッスンすると言い出し、さゆりも了承した。どんな個人レッスンをするのかは分からないが、耕一は、藤沢がさゆりを愛人にするつもりではないのかと疑った。だが、個人レッスンはとても厳しいものであり、時には泣いてしまうこともあるそうである。しかし、さゆりはだんだんと藤沢を尊敬するようになっていき、二人は行動をよく共にするようになった。さゆりの芸名はそのまま本名で通すことになった。藤沢がその名前を気に入ったからである。
「さて、室木さん。主役の中年男を決めましょう。目を付けている男がいるんですが、会ってみませんか?」
「ええ、どこにいるんですか?」
「新海一郎という役者なんですが、明日、彼が上野の劇場で一人芝居をやるんですよ。是非見に行きましょう」
次の日、藤沢とさゆりと耕一の三人で見に行った。芝居を見てしっかり勉強してもらうためにさゆりを連れてきたと藤沢は言った。劇場は古びてはいたが、キチンとしていた。中には四五十人ほどの観客が入っていた。彼の一人芝居は、女を約束の場所で一晩中待っているという設定であり、女が来てくれるのか、それとも来ないのか、不安な心情を体一杯に表現していた。耕一は本格的な芝居を初めて見たが、彼の演技力に圧倒された。どうしてこれだけの演技力を持つ男が無名であるのか不思議に思った。さゆりも感激していた。
芝居が終わると三人は楽屋に行き、新海に会った。藤沢は以前から知り合いであり、親しく話していた。それぞれ自己紹介したが、耕一にはそっけない態度であった。耕一が芝居の素晴らしさを讃えたが、それほど嬉しがる様子はなかった。
「所で新海さん。今度、私の小説の「逃亡」で映画を撮ることになったんですが、是非、主演で出てもらえんでしょうか?」と藤沢が頼んだ。
「まあ、藤沢先生がそうまで言うのなら出てやってもいいですが、私の演技にあまり口出しされたくはないですね。・・・・・・そうですね。二三日考えさせてもらいましょう」
耕一はそれを聞いてクセのある男だということが分かった。プロデューサーである耕一を無視する態度も気に入らなかった。以前勤めていた会社で上司からそんな風に扱われていたから、どうしてもこの男に頼む気にならなかった。だが、藤沢はどうしても出て欲しいらしく、低姿勢である。
「藤沢先生、他をあたりませんか。彼は我々の映画には相応しくないと思いますがね・・・・・・」と耕一は藤沢に露骨に言った。
藤沢はそれを聞き、慌てて、
「いや、そんなことはありませんよ、室木プロデュサー。彼はこの映画にはまり役ですよ」
「どうしてもこの役者を使うというのなら、私は降りますよ」と言って、耕一は立ち上がり、その場を去ろうとした。新海はその様子を見て少し驚いていた。
「待って下さい、室木プロデューサー。・・・・・・新海さん、今日はこれで失礼しますよ」
と藤沢は言って、耕一の後を追うようにして楽屋を出た。さゆりも心配そうに付いてきた。
「藤沢先生、私はああいう横柄な態度の人間が大嫌いでしてね。どうして先生はあんなに低姿勢なんですか。大俳優という訳でもないのに・・・・・・」
「ええ、室木さんの言うこともよく分かります。ですがね、役者なんてあんなものですよ。彼は自分に自信がありすぎるのでしょう。それでいつも損をしているんですよ。あの態度で人を怒らせることが今までもよくありましたよ。根はそれほど悪い奴ではないんですがね・・・・・・」
「でも、恐らく映画作りが始まっても好き勝手なことを言って、みんなを困らせますよ。私はチームワークを大切にすべきだと思いますがね」
藤沢はそれ以上何も言わなかった。
二三日して、藤沢から連絡があった。もう一度新海に会って欲しいと言うのである。耕一は迷ったが、藤沢の顔を立てることにした。会う場所はシュブールである。約束の時間に行くと既に二人は来ていた。新海はあの時とは態度が異なり、神妙にしていた。
「室木さん、実は、新海は本当は出たいと思っていましてね。あの時の態度を反省しまして、室木さんに謝りたいと言うんですよ」と藤沢が言った。
「あのう、あの時は失礼しました・・・・・・」
と言葉少なに言ったが、心から反省している様に見えた。
「ええ、いいでしょう。反省しているのなら・・・・・・。私は雇われプロデューサーみたいなものですが、この映画に資金を出しているんですよ。つまらない映画を作って、資金を無駄にしたくはないんです。藤沢監督に従い、映画史に残るようないい映画を作って欲しいですね」
「ええ、そうですね。いい映画を作りましょう」と藤沢は言った。新海も頷いていた。
「では早速ですが、資金を少し監督に渡しておきます。領収書は要りませんからね」といって、耕一はテーブルの上に五百万円ポンと置いた。二人はそれをじっと眺め、しばらく間があってから、
「ありがとうございます。室木プロデューサー、是非頑張りましょう」
と藤沢は言って、耕一の手を握った。
「さあ、今夜はじっくり飲みましょう」
耕一は、ホステスを四五人呼んだ。その夜は朝方まで飲み明かした。次の日は二日酔いで頭が痛かった。会社を辞めてから久しぶりの二日酔いである。だが、あの金は結局、誰が持って行ったのだろう?
その他の役者は藤沢がいろんな劇団から集めてきた。耕一も一緒に行動し、役者の力量を確認した。ほとんど知らない役者ばかりではあるが、しっかりと演技できる役者ばかりである。カメラマンや照明係などのスタッフも藤沢がどこからか集めてきた。学生アルバイトも何人か雇った。この先どれくらい経費が掛かるか分からないので、経理担当者を決めることとし、計算に強い山口隆にやってもらうことにした。映画に要する金を振り込む口座を作り、一応二千五百万振り込んだ。撮影には、耕一のオフィスを改造して使ったり、シュブールで撮影したりした。地方ロケにもバスを仕立てて出かけた。耕一もマネージャーとして付いて行った。移動は大変であるが、和気あいあいとして楽しい雰囲気である。中学生の頃の修学旅行のを思い出した。
安い温泉旅館に泊まり、露天風呂での撮影も行った。耕一もその時は臨時のスタッフとして加わり、マイクなどを担いだ。さゆりは体当たりで演技していた。なかなかの色気である。三ヶ月前までは素人とは思えない演技力であり、藤沢の個人レッスンの成果が出ていた。夜は宴会で盛り上がった。裸踊りをする者もおれば、有名俳優のそっくりな物真似をする者もいた。みんななかなかの芸達者である。
役者達は仕事を生きがいとして楽しんでおり、サラリーマンとは全く違う世界の人達に見えた。耕一にとっては、羨ましい世界である。
安田も素人ながら、悪徳金融の社長としてなかなか堂にいる演技をしていた。扇子を普段から持っているのであるが、それを小道具として演技においても上手に使っていた。適役である。ギャラ無しでやってくれ、シュブールでもタダで役者達に酒を飲ませてくれた。黒木と中井は、悪徳金融の社員の役を一生懸命やってくれた。だが、それが逆に問題だった。彼らは元々悪人ヅラであり、変な演技をしないで自然にいつもの通りにやれれば良かった。それを理解させるのに時間はかかったが、脅しは実に迫力があった。端で見ているだけでも怖いと感じた。ユキのひもが引き下がった訳がよく分かった。
撮影は順調に進み、最後の場面の向日葵畑での撮影が残った。山形に広い向日葵畑があるとの情報があり、そこへ出かけることになった。撮影当日は快晴であり、最後の場面としては相応しかった。やくざから奪ったピストルで主人公が頭を撃ち抜き、エンドマークとなった。最後の場面を眺めながら耕一の心には、嬉しさと寂しさが湧いてきた。
なお、予算は当初の計画より、一千五百万円オーバーしてしまった。
東京に戻り、打ち上げを行った。みんな満足している様だった。しかし藤沢は次のことを考えていた。
「室木さん、実はこの映画の宣伝なんですが、コンクールで賞を取るのが一番いい宣伝となります。それも大きな賞がいいですね・・・・・・」と藤沢が提案した。
「確かに、そうだね。でもどんなコンクールに出品するつもりなの?」と耕一が尋ねた。
「ええ、カンヌ国際映画祭なんかがいいと思ってるんですがね・・・・・・」
それを聞いて、胸が時めいた。世界の黒沢明監督や南野タケシ監督などが参加している権威のあるコンクールである。思ってもみない提案である。
「いいですね。行きましょう、カンヌへ・・・・・・」と耕一は目を輝かせながら言った。その場の酔っぱらいもみんな賛成した。
二週間後、身内だけで映写会を行った。一時間五十分の映写時間であり、最後にプロデューサー「室木耕一」の名前が出た時は、じいーんとして涙が出た。その後、多くの映画関係者を呼んで正式な映写会を行った。評判は決して悪くなかった。映画評論家が「逃亡」を少しずつ取り上げてくれるようになった。だが、やや評価が分かれていた。新人中心の映画はやはり印象が薄いと言う評論家もいれば、主人公の生き様がよく描かれていると言う評論家もいた。新海の演技が上手いということでは、意見は一致していた。さゆりの演技がなかなかなまめかしくて良いという者もいた。だが、配給先はなかなか決まらなかった。
カンヌ国際映画祭に参加申込書を送り、正式に参加することになった。
一ヶ月後、藤沢と耕一と新海の三人は飛行機で南フランスのカンヌに向かった。巨匠となりつつある南野監督は今回も参加することになっていた。カンヌでの南野監督の作品は前評判がとても高く、何らかの賞は取れるだろうと言われていた。藤沢監督の「逃亡」はあまり人々の話題になっていなかった。
カンヌ国際映画祭はとても活気があり、毎日たくさんの映画が上映されていた。三人はいろんな監督の作品をできるだけ観た。水準はとても高く、「逃亡」が賞を取れるのか心配になってきた。だが、一部の評論家には受けが良く、芸術性がなかなか高いと批評された。発表当日、三人は発表会場に行き、緊張して結果発表を待った。南野監督が監督賞を貰い、拍手を受けた。次々に部門別の発表がなされて行ったが、「逃亡」は呼ばれなかった。だが、助演女優賞として、さゆりが選ばれた。何らかの賞で選ばれるとしたら新海だろうと思っていた三人にとっては驚きである。藤沢がさゆりの代わりとして賞をいただいた。
さっそく耕一は、その結果を日本に連絡した。電話口には山口が出たが、「そうですか」と言うだけでそれほど驚いた様子がなかった。
「・・・・・・実は大変なことになっているんですよ。室木社長、早く日本に帰ってきて下さい」
と山口は困った様子で言った。さゆりに関することだった。
次の日、三人は日本に一番の飛行機で帰った。
成田空港には山口が出迎えにきた。河内はいなかった。車の中で、
「河内はどうした?」と耕一が尋ねた。
「ええ、その河内のことなんですがね。藤沢先生には大変申し訳ないんですが、河内とさゆりが駆け落ちしましてね・・・・・・」
「何だって!」と藤沢が叫んだ。
さゆりはみんな藤沢の女だと思っていた。藤沢の驚きと落胆は計り知れなかった。河内も藤沢から賞を貰ってから藤沢を先生と慕い、弟子の様な存在になっていた。その二人が駆け落ちしてしまったのである。二重の裏切り行為である。耕一はどこに二人が逃げたのか捜すように、山口に命じた。山口も心当たりを捜すことを約束した。
さて、このスキャンダルを最初隠そうとしたが、藤沢が話題になるということで、公表しようということになった。カンヌ国際映画祭の助演女優賞の女優が駆け落ちというニュースにマスコミは飛びついた。そしてその映画も話題となり、配給先の会社も決まった。
藤沢監督の名前も知れ渡り、小説だけでなく監督としての才能も認められるようになった。だが、映画の方はそれほどヒットしたという訳ではなかった。芸術性よりも娯楽性を大衆は求めていた。だが、経費を引いてもそこそこ儲かったので、関係者にボーナスを与えた。みんな大喜びで、「また作りましょう」と言っていた。
耕一の懐には百二十万ばかり残った。赤字覚悟で始めたことなので、耕一はこれでも嬉しかった。
収入・・・・・・・・・百二十万円
残高・・・・・・・・・一億三千五百五十二万九千九百五十円
マスコミもさゆりのことを捜したので、しばらくして行方が見つかった。大阪のキャバレーで働いているとのこと。耕一と山口は早速、大阪に出向き、さゆりに会った。河内はバーテンをしていた。二人を説得して、東京に連れて帰ることにした。二人は、藤沢先生に大変申し訳ないと言っていた。藤沢もすでに二人のことは許していた。彼らの行為で彼の作った映画が知れ渡ったようなものである。だが、二人のことは小説の材料として使わせてもらうと言った。どんな風に描かれるのか、楽しみである。
さゆりは本格的な女優になりたいが、プロダクションに所属していないので、仕事がやりにくいと言った。耕一にプロダクションを作って欲しいとお願いした。耕一はどうしようか迷ったが、乗りかかった舟である。作ることに決めた。しかし、どうすればいいのだろう?
まず、山口と河内に相談した。最初、なかなかよい考えは浮かばなかったが、
「そうだ、社長。やはりここは藤沢先生と相談されては如何でしょう。先生は芸能界にも顔が広いお方ですし、さゆりのことですから、きっと協力してくれると思いますが・・・・・・」
と山口が言った。
だが、さゆりは藤沢を振った女である。藤沢がいくら気のいい人間だとしてもそこまで協力してくれるとは思えない。しかし相談だけはすることにした。耕一は藤沢をシュブールに呼び、
「藤沢先生、今度ムロキプロダクションを設立することになったんですが、どうもそちらの方は素人でして、どうやって設立したらよいかよく分からないんですよ。そこで一つ先生のお知恵を拝借したいのですが・・・・・・」と耕一は低姿勢で言った。
「ふーん、凄いですね、プロダクションとは・・・・・・。しかし、誰を売り出すんですか?」
「はい、先生のよくご存じの方です」
「さゆりということですか?」
「・・・はい」
それを聞いて、藤沢はしばらく考えていたが、
「・・・・・・ええ、いいでしょう。ただし条件があります。さゆりだけでなく、前回の映画で出た無名の役者達もそのプロダクションに登録して欲しいんですよ。彼らにも仕事を世話したいんです。もちろん仕事が軌道に乗ってからの話でしょうがね・・・・・・」
「分かりました。そうしましょう」
「大きなことを言いましたが、私もそれほど芸能界に詳しいという訳ではないんです。この世界のことをよく知っている人物を紹介しましょう。並木要子いう女性ですが、なかなかのやり手です。大手プロダクションに所属していたんですが、男性幹部と衝突して辞めたんですよ。まだ男が幅を利かせている社会ですからね・・・・・・」
耕一が以前勤めていた会社でも、女性はあまり高い地位には上れなかった。才能のある女に男達は嫉妬することも多く、まだまだ男女平等の社会とは言えないのである。耕一は女性でも優秀な人物なら、積極的に登用すればいいと考えていた。
早速藤沢の計らいで、並木要子と耕一のオフィスで会うことになった。山口と河内も同席させた。彼女の歳は三十二歳であるが、見た目より少し老けて見えた。眼鏡をかけ、髪は染めてはおらず、軽くパーマをかけていた。目つきはやや鋭く、才女といった風に見える。一流女子大を卒業してこの世界に入り、タレントのマネージャーを長くやっていたそうである。名前を聞くと大物芸能人の名前を何人か上げた。耕一は採用をその場で決定した。給料のことであるが、「努力と結果に応じて、いくらでも上げてもよい」と言ったら、山口と河内は笑った。そう言えばこの二人に給料らしきものを出していたであろうか、儲かった時にはそれなりに出していた様な気もする。この面もしっかりとせねばならぬと思い、二つの会社の事務面もついでに並木にお願いすることにした。
だが、この話を聞いて、並木の方が質問してきた。
「室木さんは、ネットブック室木と東京チャット協会を経営なされているんですよね」
「ええ、まあ、そうですが・・・・・・」
「その会社のことについて、もう少し詳しく教えて下さい」
と並木は言った。
当然と言えばそうであるが、彼女の質問に答えながら、実際にいい加減な経営をしてきたことに今更ながら気づいた。並木もやや呆れていたが、引き受けてくれることになった。「うちの会社はややいい加減な所もありますが、明るいのが取り柄です。未来のある会社ですよ」と言って河内は笑った。余計なことを言う奴だが、そうなのだから仕方ないと耕一は思った。
プロダクションは室木のオフィスの一角を使うことになった。電話もそれぞれの会社用として三つに分けた。
並木には当面の間、室木プロダクションの専務兼その他雑用全てを行ってもらうことにした。次の日から勤めることになり、早速事務所の整理整頓を始めた。整理整頓をもっとしっかりやった方がいいと、山口や河内にもアドバイスしていた。男達の気づかない細かい面にも注意を払える女性である。耕一は雇って良かったと思った。
なお会社設立に関して八百六十二万円かかった。
支払い・・・・・・・・・八百六十二万円
残高 ・・・・・・・・・一億二千六百九十万九千九百五十円
プロダクションに関する一通りの事務的仕事を終えた後、並木はさゆりのマネージャとして、売り込みを開始した。さゆりはカンヌで賞を取ったこともあり、売り込みはしやすいと言っていた。早速テレビの二時間ドラマの出演を決めてきた。それほど大した役ではないが、こういう仕事をしっかりとやって名前と顔を覚えてもらうことが大切だと並木はさゆりに説明していた。それからも並木はさゆりの仕事を取ってきた。芸能界にも顔が広く、なかなか有能なマネージャーである。だんだんと山口も河内も彼女に使われるようになってきた。前の職場で男性幹部と衝突したのがよく分かる。だが、二人は少しいい加減な所があるので、ちょうどいいと耕一は思った。
並木要子の提案で、正式な経営に関する会議を定期的に行ってはどうかということになった。今までは酒を飲みながら重要なことを決めたりしてきたが、それではよくないと言うことである。耕一も賛成し、耕一、山口、河内そして並木の四人で週一回、定例会議を行うことになった。普通の会社ではあたりまえのことである。
最初の会議で並木がある提案をした。
「最初、よくこんな経営で潰れないものだと思ったんですが、よく調べてみると東京チャット協会もネットブック室木も時代の流れに乗った会社であり、よい所に目を付けたと思います。しかし、合理化を計れば、さらに伸びると思います」
いくつかの細かい合理化案を出してきた。山口と河内は、二つの会社についてあまり口出しされるのを嫌がっていたが、まともな反論はほとんどできなかった。並木には口ではなかなか勝てない様である。それで耕一の意見を聞いてきた。
「社長、合理化も大切ですが、これでは普通の会社となってしまいます。我々の夢は一体どうなるんでしょう?」と河内が尋ねた。
そう言われて耕一は困ってしまった。確かに「夢のある会社を造ろう」と耕一が二人に飲んだ時などによく言っていたことである。二人も「そうだ、そうだ、夢を追い求めよう」と賛同していた。
「社長、所でその夢って何ですの?」と並木が尋ねた。
その質問に耕一は困ってしまった。夢の実体が無いのである。何とか答えたが、抽象論であった。それで耕一は二人にも振ったが、山口も河内も十分に答えられなかった。
「・・・・・・とにかく、その夢を目指すためにも次の提案をさせてもらいます」
と並木は二つ目の提案をしてきた。
「さゆりは才能のある女優ですが、彼女一人では駄目です。才能のある子をさらに発掘したいと思います。タレント、役者、歌手、お笑い、モデル等いろんな分野がありますが、どの分野に力を入れていくつもりですか? 私としては歌手部門に力を入れたいと思っています」
その話を聞いて、何かあてがあるのではないかと耕一は思い、
「誰か候補がいるの?」と尋ねた。
「・・・・・・ええ、実は一人います。今度紹介します」
次の土曜日、並木は耕一をあるライブに連れていった。五十人ほどの観客が入れる会場であり、何人かの若手歌手が出ていた。その中に一人の高校生くらいの女の子がいた。ギターを弾きながら感情を込めて歌い、実に上手である。だが、歌詞の内容が少し暗い感じがした。
「私が目に付けているのは、あの子です。出発は詩人なんですが、歌や曲作りもなかなか上手なんでシンガーソングライターになることを強く勧めたんです」
並木が以前勤めていた会社からのつき合いがあるようで、ライブが終わってから、その子と近くの喫茶店で会うことになった。
「星野しおりといいます。高校二年です。並木さんにはお世話になっています・・・・・・」
挨拶のちゃんとできる子ではあるが、やはり少し暗い印象である。宇多田ヒカルの母親の藤圭子の若い頃に少し似ている。父親はおらず、母親と二人暮らしであるとのこと。自作の詩集を見せてくれたが、詩人としての才能はありそうに感じた。耕一は契約するか迷ったが、並木の目を信じることにした。
「所で、うちと契約する気はありますか?」と耕一が尋ねた。
「ええ、並木さんと一緒に仕事ができるなら、お願いします」
しおりは少し微笑みながら言った。なかなか可愛い笑顔である。もっと明るさを引き出せば十分売れる要素はあると思った。
契約は母親を含めて行うことになり、それらのことは並木に任せることにした。しおりは並木をとても信頼していた。
「社長、ありがとうございます。実は前の会社を辞めるきっかけは、彼女だったんです」
と並木は告白した。
「どういうことだね?」
「ええ、私はしおりの才能に目を付け、売り出そうとしたんですが、上役に強く反対されまして、結局それで辞めたんです。社長には感謝しております」
「そうですか。なら、しっかり売り込んでもらわないと困りますな」
と言って耕一は笑った。
「はい、頑張ります」と並木は力強く言った。
歌のレッスンや踊りを専門の先生につかせて習わせた。挨拶の仕方や芸能界のしきたり等は、並木がしっかりと教え込んだ。またデビュー曲の幾つかをしおりに作らせた。それらを関係者に聞いてもらい、「朝のひかり」という作品に決定した。芸名は本名で通すことにした。本人が強く希望したからである。また耕一もしおりという名前を気に入っていた。
デビューする音楽会社も決まり、五ヶ月後、新曲が発売された。最初はなかなか知られなかったが、徐々に広まり、ヒットチャート百位以内に入るようになり、ファンクラブも結成された。やや個性的な暗さを持っているので、熱烈なファンも出てきた。ファンの一部からしおりのホームページを早く作るよう要望があったので、山口がしおりのホームページを作り上げた。
そのホームページを見て、「プロ並の出来栄えですね」と並木が感心しながら言ったら、
「プロです」と山口は答えた。
「元々、財務省も餌食にする、一流のハッカーだったんだものな」
と笑いながら耕一が言ったら、
「超も付けて下さいな」と山口も笑いながら言った。
並木はその会話を聞いてとても驚いていた。耕一達がうさん臭い連中であることに気づき出していたが、辞めるとは決して言わなかった。
今回のデビューの経費として、三千五百七十万円かかった。利益は当分期待できそうもなかった。
なお、この頃、山口と並木が楽しく会話するような場面が見られるようになった。最初と比べると仲はずっと良いようである。男女の仲にはならないに思えるのだが・・・・・・。
支払い・・・・・・・・・三千五百七十万円
残高 ・・・・・・・・・九千百二十万九千九百五十円
ある夜、耕一がいつものようにシュブールで酒を飲んでいると、黒木が話があると言ってきた。
「実は、室木社長にお願いがあるんですが・・・・・・」
「それは何かね? 金を貸してほしいというのは困るよ」と言って耕一は笑った。
「ええ、実は私はボクサーなんですよ。でも今は歳ですので、コーチみたいなことを時々やってるんですがね・・・・・・」
初めて聞くことである。どうして黒木があんなに強いのかよく分かった。
「それで、どんな頼みかね?」
「実は、私が通っているジムに『あしたのジョー』がいるんですよ」
あしたのジョーと聞いて、興味が湧いた。あしたのジョーは耕一が子供の頃流行った漫画である。アニメにもなり、力石との決闘場面はよく覚えている。
「それでそのジョーがどうしたのかね?」
「ええ、そのジムを板東ジムと言うんですが、その板東会長が病気で倒れてしまったんですよ。そのジムには借金があり、借金取りが押し掛けて潰れそうなんです」
「あしたのジョーはどうしたのかね?」
「ええ、板東ジムに矢川辰巳という奴がいるんですが、世界も狙える逸材なんですよ。少年院上がりなんで、みんなあしたのジョーって呼んでいるですがね・・・・・・」
「それで私にどうして欲しいと言うのかね?」
「ええ、実は辰巳と会長に会って貰いたいんですが・・・・・・」
黒川はジムに援助して欲しいらしかったが、まずはそのジムと矢川辰巳という人物を見てみたいと思った。
翌日は日曜なので、早速黒木と一緒に板東へジム出かけた。そのジムは下町にあり、建物は古く、所々ヒビが入っていた。黒木がジムに入ると、
「黒木コーチ、おはようございます」と若い連中が挨拶した。ここではコーチということになっているらしい。ジムの隅にサンドバックを叩いている目の鋭い若者がいた。
黒木が、「あれが矢川辰巳です」と言った。確かに漫画のジョーにどことなく似ていた。素早いパンチを鋭く繰り出し、左が強そうに見えた。黒木は耕一を矢川に紹介した。矢川は耕一に軽く挨拶をして再びサンドバックを叩き続けた。
「辰巳をリングに上げて練習させますから、よく見て下さい」と黒木が言った。
辰巳は黒木の指示に従い、リングに上がった。黒木はコーチとして相手役になった。辰巳はバンタム級であるが、黒木は一回り大きかった。だが、辰巳のパンチは黒木を追い詰めていた。練習が終わった後、
「どうです。今度、バンタム級の全日本タイトルマッチがあるんですよ。ですがね・・・・・・」
黒木はこのジムが潰れそうなので、是非とも援助して欲しいと切り出した。耕一はまだ迷っていた。黒木が、是非とも坂東会長にも会って欲しいと言うので、会うことにした。ジムを出て板東が入院している病院に向かった。坂東は四人部屋の病棟にいた。奥さんは既に病気で亡くなっており、二十五歳の一人娘の朋子が看病していた。会長の病気は肝硬変ということだった。黒木は耕一を、映画のプロデューサーであり、出版会社の社長として紹介した。坂東とはベットの脇で話をしたが、ボクシングへの情熱はまったく失っていなかった。是非ともジムへ援助して欲しいと耕一に強く要請した。耕一は世界に通用するボクサーを育てる、という夢に援助してみたくなった。それで耕一はどれくらい借金があるのか尋ねた。八百万ほどあるとのことである。
「では、援助しましょう。ただし共同経営者ということでどうですか? まあ、考えてみてください」
「いや、考える必要はありません。是非とも共同経営者ということでお願いします」
ベットで頭を下げながら板東は答えた。
三日後、借金取りを全部耕一のオフィスに呼んだ。五人の男たちが集まった。板東会長の娘の朋子、それに黒木や中井、山口達も同席させた。脅しをかけてきたら対抗するためである。証文を確認してからそれぞれの男たちに支払った。全部で八百六十七万四千円である。耕一は今後、板東ジムを応援してくれるよう借金取り達に頼み、高価なウイスキーを土産物として持たせた。男達は「さすが大社長だ」と言いつつ感心して帰って行った。
ジムの名前に室木の名前も付け加えようと朋子は提案したが、それは断った。耕一はチャンピオンが見たいだけである。
耕一は暇があればジムに行くようにした。ジムの若者達も挨拶するようになり、辰巳にも試合目指して頑張るよう励ました。
辰巳は小さい頃親に捨てられ、養護施設で育った。だが、新聞配達をしながらボクシングに打ち込み、女や都会の誘惑にも負けず、「あした」を目指し頑張っている。
三ヶ月後、全日本バンタム級タイトルマッチが行われることになった。挑戦者として矢川辰巳は意気込んで試合にのぞんだ。朋子と黒木、それに耕一がセコンドに付いた。
開始のゴングが鳴り響き、辰巳は元気よく青コーナーから出て行った。黒木は第一ラウンドはじっくりと相手を見るよう指示した。チャンピオンも同じ作戦の様だった。
第二ラウンドは一転して撃ち合いになった。辰巳が少し押され気味に感じた。左ストレートを積極的に使い、打ち負けないよう黒木は指示したが、耕一は「負ける覚悟でうち倒せ」と指示した。
次の第三ラウンドも第二ラウンド以上に激しい撃ち合いとなった。辰巳の目はだいぶ腫れ赤くなってきた。どちらかがノックアウトするまで打ち合うだろうと予想された。三ラウンドの終盤に、辰巳は不意の強打をボディに受けて倒れてしまった。
「立つんだ辰巳! 自分であしたをつかむんだ!」と耕一は叫んだ。辰巳は立ち上がり、ファイト姿勢を取った。その時ゴングが鳴った。
第四ラウンドで決着をつけることになった。辰巳は青コーナーを勢いよく飛び出して行った。その後ろ姿は汗で光り輝いていた。
(勝つんだジョー! あしたを目指して!)と心で耕一は叫んだ。
辰巳は激しい撃ち合いの中から勝機を見い出した。辰巳の強烈な左アッパーがチャンピオンの顎に炸裂した。チャンピオンはガクンと頭を振るとゆっくりマットに倒れた。カウントが体育館に響き渡り、テンカウントされた。終了のゴングが鳴った時、耕一達は歓声を上げた。新チャンピオン「矢川辰巳」の誕生である。黒木や耕一達もリングに上がり、辰巳を担いだ。こんな感動したことは今までに無かった。テレビの前で見ているだけは本当の素晴らしさは分からないであろう。ボクシングは感動的な男のスポーツであることを実感した。
なお、借金及び諸経費として九百二十万三千円かかった。
支払い・・・・・・・・・九百二十万三千円
残高 ・・・・・・・・・八千二百万六千九百五十円
粉雪が舞い始めた師走、耕一がジムを訪れると、辰巳が浮かない顔をして練習場の椅子に座っていた。耕一がどうしたのか尋ねると、
「ええ、実は今度、俺が育った向日葵学園の園長さんに呼ばれてそこへ行くことになったんスが、何をどうすればいいかわからないんスよ」
「もうすぐクリスマスイブだな・・・・・・。そうだ! その日に行ってプレゼンを子供達に配ればいいじゃないか。みんな喜ぶぞ」
「それはいい考えスね。でも金が・・・・・・」
「そうか・・・・・・。まだ若いからな。チャンピオンになったとしてもそれほど金回りがいいとは言えんか・・・・・・」
耕一はしばらく考え、
「よし、君を育ててくれた向日葵学園に行こうじゃないか。それなりのプレゼントを持ってな。金のことは心配する必要はない。君は向日葵学園にどんな子が何人いるかや名前などをしっかり調べて置きなさい」
「は、はい。ありがとうございます。園長さんに聞いて直ぐに調べます」
耕一は三億円が当たったのに、寄付というものを一度もしていなかった。この幸運を恵まれない子供達にも分けてあげてもいいと思った。
子供たちは二十一人いるとのこと。二人でデパートに行き、いろんなプレゼントを買い、それぞれに名前を付けた。それを大きな袋に入れ、クリスマスイブの日に二人は耕一の車に乗って向日葵学園に出かけた。その日は朝から粉雪が降っていた。学園の庭にはうっすらと雪が降り積もっていた。
「さて、辰巳くん。君に百万預ける。これを向日葵学園の園長さんに寄付として渡しなさい。いいかね、これは君からの寄付と言って渡すんだよ」
「えっ! そんなことできませんス。室木社長さんが渡して下さいっス」
「いいや、ダメだ! ここからは一人で行きなさい」
「えっ! 社長さんは行かないんスか?」
「ああ、行かない。行きたくない。・・・・・・君もチャンピオンなんだからそれらしく振る舞いなさい。それから言葉の最後に『ス』と付けるのはやめなさい。チャンピオンらしくないからね・・・・・・」
「分かりましたっ、です」
「それからサンタの帽子と髭を買っておいたから付けて行きなさい。今日は、あしたのジョーからタイガーマスクになってな・・・・・・」と言って耕一は笑った。
「タイガーマスクって何スか?」
「昔の英雄だよ。さあ、行きなさい」
辰巳はサンタの帽子と髭を付け、大きな袋を持って車から降り、学園に入っていこうとした。入口で耕一の方を振り向いた。耕一は車の中から「早く行け」と顔で合図をした。辰巳は覚悟を決めて学園に入っていった。彼が入ってからしばらくして、学園の中から子供達の歓声が聞こえてきた。耕一は、車の中でタバコにジッポのライターで火を付けてから車を出した。今夜はぐっと冷えそうである。
なお、プレゼント及び寄付代金として、百三十万三千円かかった。
支払い・・・・・・・・・百三十万三千円
残高 ・・・・・・・・・八千七十万三千九百五十円
ある日、黒木から連絡があり、自分の引退試合をしたいとの申し出があった。黒木は既に三十二歳である。全日本の三位まで行ったこともあるが、引退してもよい歳である。相手は世界ウェルター級五位の選手である。相手にとって不足は無かった。相手にしてみれば世界チャンピオン戦への足慣らしであり、黒木を「かませ犬」と見ていた。
試合が決まった日から「ジョニー黒木」は本格的な練習を開始した。ショニーとはリング名である。耕一も時々ランニングなどに付き合った。ジョニー黒木の減量は大変だった。規定体重より八キロもオーバーしていた。辰巳らと一緒に激しいトレーニングをしながら食事制限に取り組んだ。日々ジョニー黒木は痩せていった。だが、顔付きはさらに精悍になってきた。
一ヶ月後、試合が行われた。相手の選手は相沢といい、まだ二十三歳と若く、これからの選手だった。セコンドには耕一と朋子と辰巳が付いた。ジムの後輩や安田、それにシュブールのホステスなどが応援に駆けつけた。
第一ラウンドのゴングが鳴り、ジョニー黒木はゆっくりとコーナーから出て行った。相沢は軽いステップでジャブを繰り返した。少しナメてかっている雰囲気である。ジョニー黒木はじっくりと相沢を観察していた。余計なパンチは繰り出さなかった。
第二ラウンドから本格的に相沢も打ち込んできた。何度かコーナーに追い込まれることはあったが、ベテランの技術で回避した。
第三ラウンドからジョニー黒木は積極的にパンチを繰り出し、撃っては逃げ、撃っては逃げを繰り返した。相沢はだんだんと苛立ってきた。
第四ラウンドから相沢のパンチがボディにヒットするようになった。ジョニー黒木のガードが甘くなってきた証拠である。ジョニー黒木の顔に疲れが見えてきた。何度かコーナーに追い込まれることがあった。
第五ラウンドの始まる前、ジョニー黒木は耕一に、
「室木社長、この回で勝負をかけます。長引けばこっちが不利です」
と激しく息を吐きながら言った。
第五ラウンドの鐘が鳴るとジョニー黒木は勢いよく飛び出した。ジャブとストレート繰り出し、相手をコーナーに追い詰めた。相沢は何とか回り込み、ジョニー黒木に反撃した。相沢の右ストレートが黒木の顎に命中した。ジョニー黒木は顎を上げ、リングに後ろから倒れ込んだ。
「立て、黒木! 立つんだ! ジョニーーーーーーーー」耕一は叫んだ。
ジョニー黒木はゆっくりと立ち上がり、カウントナインでファイテングポーズをとった。相沢はそれを見て、右ストレートを打ち込もうとした。するとジョニー黒木はそれをかわすと、右ストレートを相沢の顔面に打ち込んだ。相沢はガクンと膝を床につき、ダウンした。二、三秒して立ち上がったが、鐘が鳴った。
ついに第六ラウンドのゴングが鳴った。今度は相沢が勢いよく飛び出してきた。ジョニー黒木は相沢の右ストレートを顔面に受け、右目の上から出血した。だが、激しく反撃し、最後の撃ち合いを仕掛けた。血はだんだんと流れ出て、リングに飛び散った。その時、朋子がタオルを投げようとした。だが、耕一はそれを止め、最後までやらせようとした。ジョニー黒木はコーナーに追い詰められてついにダウンした。耕一はそのままでよいと思った。だが、ジョニー黒木は立ち上がろうとしたその時、レフリーが試合を止めた。ジョニー黒木のTKO負けだった。
耕一達はジョニー黒木を抱えてコーナーに戻った。ジョニー黒木はぼんやりとして意識がない様だった。ジョニー黒木は抱えられたまま控え室に戻った。
耕一は素晴らしい試合だったとジョニー黒木に言ったが、
「室木社長、これで俺のボクシングは終わりました・・・・・・」
とジョニー黒木はグローブを外しながら寂しげに言った。耕一は、ボクシングは素晴らしくて哀しいスポーツであると思った。
その試合から数日経って、黒木から連絡があった。今度、朋子と結婚することになったそうである。耕一は驚いたが、とても良いカップルだと思った。結婚式はジムのリングの上で行うとのこと。そんな結婚式は今まで聞いたことはなかった。みんなも驚いていた。 耕一は御祝儀として百万包んだ。リングの周りに招待客が並び、リング上で司会者が二人を呼んだ。
「青コーナー、ジョニー・ク・ロ・キーーー」
「赤コーナー、板東・ト・モ・コーーー」
結婚はある面、格闘である。これは耕一の実感である。だが、この二人には協力して幸せな家庭を築いて欲しいと素直に思った。
黒木はタキシード、朋子はウエディングドレスだった。二人はリングの中央に立ち、牧師の前で将来を誓い合った。朋子の父も医師から許可をもらい病院から一時退院し、涙を流して二人を祝福した。披露宴もそのままジムで行った。リングの上で友人がスピーチを行い、祝い歌を歌ったり、詩吟、物まねなどが行われた。
最後に二人が招待客にリングの上で挨拶をした。二人で協力し、このジムを盛り立て、世界チャンピオンを育てたいとのことである。この二人に大いに期待したい。
なお、御祝儀等で百二十万五千円かかった。
支払い・・・・・・・・・百二十万五千円
残高 ・・・・・・・・・七千九百四十九万八千九百五十円
ジャンボ宝くじの売り出しが開始された。宝くじと聞くと胸がときめいてしまうのである。もう一度三億円が当たるとは思わないが、五千万円くらいなら当たってもおかしくないであろう、などと思ってしまうのである。
どれくらいつぎ込むべきか迷ったが、元々無かった金であると考えれば、五百万円や一千万円くらいは使えると思った。問題は買い方である。縁起も担ぐ必要がある。これはとても重要な要素である。運の悪い奴には絶対当たらないと思って間違いないのである。当たった人達の話を聞くと、何らかの予感があったと答えている方が多い。耕一の時は別であったが・・・・・・。しかし、耕一も縁起を大切にする方である。近くの神社にお参りに行き、お神籤を引いてみた。大吉である。これは良い兆候である。一千二百万円つぎ込むことに決めた。
買うために三日間要した。山手線を回り、まず東京駅前周辺の売り場で百万円買い、次にその隣の駅という順で買い続けた。二日でぐるりと回った。全て連番とした。バラ買いではいちいち確認するのに疲れてしまうからである。全部で四万枚の宝くじを購入した。
発表当日、耕一は自分のマンションにいた。インターネットで当選番号を確認し、それらの数字を一時間かけて全て暗記した。いちいち宝くじと当選番号を確認していては、時間がいくらあっても足りないからである。
まず、十枚セットの宝くじを一セットずつ、調べていった。連番一セットで確実に一枚七等三百円が当たっている。合計四千枚が当たり、百二十万円は確実に当たっていた。元金の十分の一である。四万枚の宝くじから七等四千枚を全て抜いた。
さて、次は六等三千円の番である。確率的には百枚で一枚当たることになっている。しかし百枚の連番という訳ではないので、丁寧に調べていった。全部で四百五枚当たっていた。合計百二十一万五千円であった。五等一万円は四十一枚当たり、合計四十一万円であった。次に一等と二等を同時に確認していった。組が同じ番号は特に念入りに確認した。だが一枚も当たっていなかった。それが分かった時、ふっとため息が出た。ごろんと横になり、一億二億はめったに当たらないことが実感できた。射的で貰ったジッポで煙草に火をつけ大きく吸った。煙草を灰皿に置くと、煙がすうっと天井に伸びた。
さて、気を取り直して四等十万円三等百万円の確認作業に入った。四等は二枚当たっていた。それを見つけた時、少しほっとした様な嬉しい気持ちになった。四等が当たったのは初めてである。三等はもう無理だなと思っていた時、ふと見つかった。いや、一番違っていた。結局三等は当たらなかった。やはりこんなものだろうと思った。
結局、確認作業に二日間要した。三億円が当たることの凄さ、運の強さは今の耕一にはなかった。あれで人生の運の全てを使い切ったのかも知れない。
支払い・・・・・・・・・八百九十七万五千円
残高 ・・・・・・・・・七千五十二万三千九百五十円
久しぶりに競走馬の「ムロキカチドキ」を育てている山田から連絡があった。二歳新馬戦があるので、是非とも出したいとのことである。まず馬の出来ばえを見に来て欲しいと言った。耕一はさっそく新潟に行くことにした。新潟駅に着くと山田が待っていた。山田の車に乗って牧場に直ぐに行った。牧場は晴れ渡り、馬達が元気良く駆けていた。眺めているだけで清々しい気持ちになった。
柵の所から、
「ほら、あれがムロキカチドキですよ」と言って山田は一頭の馬を指さした。
指さす彼方に一頭の元気のいい馬が栗毛のたて髪をきらきらと靡かせて走っていた。あの時とは見違えるほどの新馬となっていた。山田が呼ぶとこちらの方にやって来た。
「どうです。触ってみませんか?」
耕一は少し躊躇しながらお腹を撫でてみた。ムロキカチドキは「ヒヒーン」と一啼きして応えた。
「練習でもなかなかいいタイムを出しているんですよ。うまくすれば勝てるかも知れません・・・・・・」
するとそこへ一人の男がやって来た。すると山田が、
「あっ、紹介します。騎手の川上勝弘です。ムロキカチドキに乗ってもらおうと思ってます。・・・・・・それからこちらが馬主の室木さんです」と互いを紹介した。馬主という言葉が少し嬉しかった。
「室木さんですか。川上です。どうぞ宜しくお願いします」
といって帽子を取り、頭を下げ、丁寧に室木に挨拶した。川上は騎手になって五年目であり、まだ若手の方である。耕一は川上の手を握り激励した。新馬戦は一ヶ月後であり、まだ日にちがあった。いったん東京に帰ることにした。だが、新幹線の中でお腹が痛くなった。この頃、時々痛むが、しばらくするとその痛みは治まるのである。
新潟から帰って三日後、耕一はシュブールで山口達と酒を飲んだ。その翌日、またお腹がいたくなり、近くの病院へ行くことにした。レントゲンを撮った後、しばらくして医者は、家族の者を呼んでくるよう耕一に言った。家族はいないと言ったら、医者は、
「・・・・・・そうですか。ではお話しします。胃にポリープが見られます」
「えっ? ガンということですか?」と耕一は慌てて言った。
「まだはっきりしません。良性かも知れません。でも少し大きいですね。ガンの専門病院でよく見てもらった方がいいでしょう」
それを聞き、耕一は呆然となった。
(ガンだったらどうしよう? いや、恐らくガンだろう・・・・・・)
そんなことを考えていたら、ふと離婚した妻の佳枝と息子の雄一のことを思い出した。 耕一が家を出てから既に二年が過ぎている。あの二人は今、何をやっているのか知りたくなり、次の日、サングラスを掛け、車で家の近くに行き、家の周囲を車でゆっくり回った。二年前と家の雰囲気はほとんど変わりなかった。表札を見たが、まだ室木のままだった。
あの二人の現在の状況をもっと詳しく知るために、耕一は探偵を雇い、急いで調査させた。一週間ばかり掛かったが、詳しく調べてきた。経費として三十万円かかった。
佳枝はスーパーの臨時雇いのレジをやっていた。雄一は何とか大学の経済学部に入り、飲食店のバイトをしながら通っているとのことだった。二人とも健康であり、現在の所、大きな問題はないとのことである。耕一は家出して、行方不明ということになっており、捜索願いも出されているとのことである。だが離婚届けは出されていなかった。
(俺のことを待っているのだろうか? いや、そんなことはあるまい。そんな連中ではない筈だ・・・・・・)
耕一はどうしようか迷った。
(電話を掛けるべきか、このままにしておくか、それとも専門病院へ行くべきか・・・?)
まだ専門病院には行っていなかった。怖かったのである。はっきりガンと宣告されることが・・・・・・。
耕一は迷った。だが、夜、佳枝に電話を掛けることにした。
「もしもし・・・・・・」
「はい、室木ですが、どちら様でしょうか?」
妻の声だった。しばらく黙っていると、
「もしかしたら、・・・・・・貴方ですか! お父さんですか!」
耕一はその問いには何も答えず、電話を切った。久しぶりの懐かしい声であった。次の日も同じ時間に電話を掛けた。すぐに受話器を取る音がした。
「もしもし、もしもし」と妻が言った。
「・・・・・・やあ、久しぶり、耕一だよ。元気でやってるかい?」
「ええ、雄一も元気よ! 今、どこにいるの?」
「ああ、元気にしているよ。久しぶりに声が聞きたくなってね。・・・・・・所で離婚届けは出していないのか?」
「・・・・・・ええ、出さなかったわ。ちゃんとした話し合いもしないで出すことはできないわ」
「ハハハハハ、そうかい。既に出されたと思ったよ」
「・・・・・・とにかく一度会いましょうよ」
「考えておく・・・・・・。それから金を家の口座に振り込むよ。商売で少し儲けたからね・・・・・・」
「じゃあ、ちゃんと仕事してるのね?」
「ああしてる。・・・・・・また電話するよ」
そう言って耕一は電話を切った。
何となく少しほっとした。耕一は次の日、二千万円を口座に振り込んだ。それから専門病院へ行った。精密検査の結果、やはりガンであった。転移はない様なので、手術すれば恐らくよくなるであろうと医者は言った。だが楽観はできないと付け加えた。「恐らく」という言葉に引っ掛かりを感じたが、その通りなのであろう。悪ければ駄目だということである。入院は今日からでもいいと医者は勧めたが、三日後にしてもらった。新馬戦が二日後にあるからである。家に帰る車の中で、いろんなことを考えた。
(もしかしたら自分の命は、あと数週間、いや一週間もないかも知れない。この二年間は、神様がくれた幸せだったのだろうか? だが、金も命が無ければただの物でしかない。結局、死に直面すると全てが無になるということだな・・・・・・。だが・・・・・・)
なお、経費として、調査費、治療費、及び仕送り等で二千三十九万五千円六百円かかった。
支払い・・・・・・・・・二千三十九万五千六百円
残高 ・・・・・・・・・五千十二万八千三百五十円
新馬戦は大井競馬場で行われることになった。入院する前日である。山口と河内を引き連れ、大井競馬場に向かった。耕一はムロキカチドキに賭けることにした。距離は千二百メートルの短距離戦である。五千万円の一点買いをした。
山口と河内は、その買い方を見て、
「凄い博打ですね」と山口が興奮気味に言った。
「倍率は四倍ですよ。当たれば二億円ですか・・・・・・」と震え気味で河内が言った。
「これが取れたら君たちにボーナスでもやろうかね」と言って耕一は笑った。
それを聞いて、二人は一段と目を輝かせた。
馬券を買ってから、山田と騎手の川上の所に行き、今日の馬の調子を尋ねた。
「ええ、大丈夫です。きっと勝てます」と山田は言い切った。川上は、
「できるだけ馬の良い所を引き出してみせます。頑張ります」と語気に力を込めて言った。
パドックでムロキカチドキの様子を眺めた。少し鼻息は荒いが、気合いが入っているのがよく分かった。だが、耕一の腹が痛くなり始めた。
腹をさすりながら耕一は、
(自分に運が残っているなら勝つだろう。だが、負けたら全て終わりである。ガンにも勝てないであろう。自殺もいいかも知れない。だが、もし勝ったら妻に連絡し、全て謝ろう) などと考えていた。
その時、スタートの合図が鳴った。
ゲートが一斉に開き、十六頭の馬が飛び出した。だが、ムロキカチドキは気負いすぎたせいであろうか、他の馬よりやや遅れて飛び出した。馬券を握る手に力が入った。百、二百、三百と過ぎたが、ムロキカチドキはまだ後ろの方である。だが、五百を過ぎた辺りから外枠からだんだんと抜け出し、五六番手辺りまで盛り返した。
「ムロキーーームロキーーーーーーー!」
と力一杯声援した。だが、腹は激しく痛み始めた。
耕一の願いが通じたのであろうか、九百を過ぎた辺りから三番手、二番手となり、先頭の馬に激しく迫った。
「ムロキーーーーカチドキーーーーーー!」
最後の百は川上騎手のムチが激しく叩かれ、ラストを迎えた・・・・・・。
耕一は馬券をしっかり握りながら、腹の痛みでその場に倒れた。歓声は聞こえたが、結果は確認できなかった。薄れていく意識の中で、いろんな人の顔が一瞬に脳裏を駆けめぐった。
そして最後に、妻の顔が見えた様な気がした・・・・・・。
了