鶏頭の句の分析

鶏頭の十四五本もありぬべし   子規

 この句は、子規の名句として知られているが、評価の分かれる句であり、虚子などはその価値を全く認めていない。何故評価が分かれるのであろうか。それを考察してみたい。
 評価の分かれ目は、どうも「十四五本」という表現のようである。良しとする方は十四五本という数が鶏頭の群生にとって相応しく、最も鶏頭らしい情景であるとしている。十四五本の昔からの鶏頭を想像してみよう。如何であろう。鶏頭にとって相応しい情景であろうか。そう感じる人はこの句を良しとするであろう。違うという方は、子規が十四五本という数を適当に考えだしたものであり、相応しくないと感じるであろう。
 さて、実際はどうなのだろう。科学的に調べるには、鶏頭の数と被験者の感性との相関を調査すればよいのであるが、文学にそんなことは相応しくないのである。文系の人たちには笑われるだけであろう。よって、数と私のまともと思われる(?)感性でしらべてみよう。

× 1 鶏頭の一本ありぬ土の上
× 2 鶏頭の二本ありけり土の上
× 3 鶏頭の三本ありぬ土の上
× 4 鶏頭の四本ありぬ土の上
× 5 鶏頭の四五本もありぬべし
× 6 鶏頭の五六本もあもぬべし
○ 7 鶏頭の六七本もありぬべし
○ 8 鶏頭の七八本もありぬべし
○ 9 鶏頭の八九本もありぬべし
× 10 鶏頭の九十本もありぬべし
× 11 鶏頭の十一二本もありぬべし
× 12 鶏頭の十二三本もありぬべし
× 13 鶏頭の十三四本もありぬべし
○ 14 鶏頭の十四五本もありぬべし
× 15 鶏頭の十五六本もありぬべし
× 16 鶏頭の十六七本もありぬべし
× 17 鶏頭の十七八本もありぬべし
× 18 鶏頭の十八九本もありぬべし
× 19 鶏頭の十九二十本もありぬべし
× 20 鶏頭の二十一二本もありぬべし

 さて、これだけ並べてみると、気がつくことがいくつかある。
 まず、助動詞「べし」であるが、推量・意志・当然・適当・命令・可能の意味をもっている。「十四五本」というのであるから、おそらく推量のべしであろう。鶏頭が一本ならば「べし」はおかしいのである。見て当然分かるから「ぬ」か「けり」でよいであろう。 一二本もやはりおかしいであろう。見て一本か二本か分からない筈もないのである。二本三本四本も見て直ぐに分かるであろう。四本を過ぎて五本となると、数の概念の乏しい方の中には、見ただけで分からない人も出てくるであろう。「四五本」という表現はあり得るということである。
 さて、一番から四番までは、やはり数が少なすぎて、鶏頭らしさがあまり感じられないであろう。また断定している句であるから、削除してもよいであろう。
 また、よく分析してみると、数だけが問題ということではなく、リズムや字数なども関係してくるということに気がついたのである。五番から二十番までを朗読してみた場合、リズムの乏しいものは削除してもよいであろう。名句には五七五のリズムも大切である。本数だけではないのである。中六の句や中八以上の句も削除してよいであろう。字足らず字余りは名句に相応しくないであろう。
 さて、この規定に当てはまる句は、次の4つの句である。

○ 7 鶏頭の六七本もありぬべし
○ 8 鶏頭の七八本もありぬべし
○ 9 鶏頭の八九本もありぬべし
○ 14 鶏頭の十四五本もありぬべし

 ここで「も」が気になるのである。「も」とはそんなに「も」あったということである。そんなに「も」がつくには、六七八九本は如何であろう。そんなに「も」と感じるであろうか。やはり十を超えるないと「も」がつけられないということである。これは感覚的にそう感じるのである。そうなるとこの句しか残らないということである。

14  鶏頭の十四五本もありぬべし

 リズムよく、姿よく、言葉の使い方も的確である。この句は長塚節のような短歌の方々が名句と認めているのが、何となく分かるのである。この句は数だけでなく、リズムや言葉の使い方が的確なのである。よって名句と認められたのである。数だけにこだわった人々には、名句としては認められなかったであろう。この句はイメージだけでなく全体として理解しなければならない名句なのである。

                                               2007.10.13