写実句と心象句との間
                                       
 
 写実とは、事実あるいは現実にあり得る場面を句に表現したものであり、心象とは現実にはあり得ない心の風景を句にしたものである。このように規定してみたが、その中間に位置する句はないのであろうか。
 実際にあり得るが心象風景とも云える句とはどんなものであろう。ここに一つの例を挙げて考えてみたいと思う。

  春の水とは濡れてゐるみづのこと    長谷川櫂

 水が濡れているというのは当たり前と多くの方は考えるであろう。だからこの句は写実の句というであろう。しかし、濡れるとは水が物につくことでもあるわけである。水という物に水がついているから濡れているといえるのだろうか。いえるのかも知れないし、水は濡れる対象ではないのかも知れない。であるから春の水が濡れているというのは心象なのかも知れないし、そうではないのかも知れない。また、春の水が濡れているといっているのである。では夏の水はどうなのだろうという疑問も浮かぶであろう。この辺りが哲学的である。
 こういう具体物を詠みこんだ哲学的命題の句はどちらともいえないように思える。どちらともはっきりと指摘できない句は不思議な句である。こういう不思議な句はなかなか詠めないであろう。ある面では不明瞭な句ともいえる。だがその深さにおいて名句となれる可能性もある。

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