芭蕉を捨てよう

                                           

 芭蕉は昔から俳聖として崇められてきた。芭蕉のような句を詠むことが理想とされ、多くの俳人が芭蕉を目標としてきた。芭蕉の句には深みがあり、人生の詠嘆があり、感動があり、理想があり、深い哀しみがあり、大人の文学であるとされてきた。私もそう感じていた。そして真似ようとした。しかし、並才が真似のできるものではなく、あのような天才は一人なのである。また一人でよいのである。天才を崇めてもよいが、天才の真似をしてはいけないということに気がついたのである。
 芭蕉以前の俳諧としての句はだめなものとして明治以降の俳人たちによって軽視されてきた。だが俳句の原点は俳諧である。俳諧から俳句は始まったのである。俳諧にはおどけ、たわむれ、滑稽などの意味があり、江戸の庶民には長くもてはやされたのである。それを文学ではないと明治の俳人はあっさりと切り捨て、芭蕉を理想としてしまったのである。明治の重々しい理想からすればそれはそれで正しかったのかも知れない。だが明治は遠く過ぎ去り、軽さの似合う平成の時代である。重苦しいべートーベンも平成の時代には流行らないのである。芭蕉の句はベートーベンの音楽に似ており、重々しすぎるのである。芭蕉のような天才を現在の一般大衆が真似ることに無理があるのである。重々しい句の死骸だけが出来上がるのである。
 芭蕉を捨てよう。芭蕉を目標とすることをやめよう。何と心が軽くなるではないか。何と心が楽しくなるではないか。さあ、長い間文芸の隅の方に置かれた俳諧を楽しもう。江戸庶民のように心を軽くして俳句を楽しもうではないか。俳諧は俳句の原点である。原点はどのような領域においても大切にすべきものである。そうすれば若者にも俳句は受け入れられるようになるかも知れない。若者が見向きもしない俳句はやはり低迷しているのである。俳句は大人の文学として若者にそれほど期待をかけてはいない傾向にあるが、改革は若さにあるのである。若者に俳句への関心をもってもらうためにも軽さが大切ではなかろうか。重さは今の時代には合わない。歴史は繰り返すというが、江戸庶民の明日の金は持たぬという軽さが平成の世に復活してもよいであろう。

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