牡丹百句

 植木屋で牡丹に出会ったのである。その時、「ぼうたんの百の揺るるは湯のやうに」という森澄雄の心象句が思い浮かんだのである。次に、「牡丹散て打かさなりぬ二三片」という与謝蕪村の写生句が思い浮かんだのである。さて、私にはどんな句が詠めたかというと、何も思い浮かばなかったのである。だが、ある疑問が浮かんだのである。牡丹の秀句はどこにあるかである。どこに隠れているかである。牡丹の句はあまたあるが、その多くが凡句なのである。牡丹のどの辺りを詠めば秀句になるのであろう。心象に隠れているのであろうか、それとも写生であろうか。そんなことを考えながら、再び牡丹を眺めたのである。その牡丹は花びらが赤く、蘂が黄色く、花粉がこぼれたのであろうか、花びらに少し付いていたのである。それで、まず写生句を詠むことにしたのである。「ぼうたんの赤きに付ける花粉かな」。これでは牡丹の美しさが何も表現されていないので、なかなかの凡句である。さて、心象ではどうであろうか。「ぼうたんの蕾に隠るる花の精」この年齢で花の精は無いだろうということで、凡句である。よって、秀句は詠めなかったのである。牡丹の精は私に微笑んでくれなかったということである。世の中には牡丹で秀句をものにできる人がいる訳であるが、才能があったということなのであろう。才能が乏しいと秀句には出会えないのであろうか。私は違うと思うのである。才能は秀句との出会いの確率を高めるが、どのような俳人にもその出会いの可能性の確率はあると思うのである。出会いの可能性を高めるために、対象を好きになることが大切のように思うのである。対象を好きになるとは、対象を数多く詠むことであると思うのである。五十句百句と詠むのである。すると対象は微笑んでくれるかも知れないのである。その時、俳人は秀句に出会えるのである。私が牡丹の句で佳句すらものにできなかったのは、才能だけでなく対象に対する愛が足りないことも一因であると思うのである。一つの対象に絞って多く詠み続けることも作法の一つとして考えられるであろう。これは数打てば当たるという発想とはやや異なるのである。

                                        2008.1.1