文語俳句と口語俳句
歴史的仮名遣い使う俳人は、文語で俳句を詠む傾向にある。また現代仮名遣いの方は口語で俳句を詠むかといえばそうでもないのである。現代仮名遣いと文語の組み合わせも多い。口語で俳句を詠む方は短歌よりもずっと少ないようである。
私も口語で俳句を詠んだことがある。どうも軽く感じるのである。何故であるか考えてみた。まず、代表的切れ字「や、かな、けり」は文語の言葉であるので、口語俳句には使えないのである。よって、句に明確な切れがなくなってしまい、言葉がすらすらと流れる感じになってしまうのである。俳句に切れがないと一行詩になってしまうのである。口語俳句で切れ字の重要さが感覚的に理解できたということなのである。だが、切れ字にとって口語俳句は、己の存在を否定するとんでもない敵である。切れ字が激怒しているであろう。
さて、口語俳句に俳句としての価値が乏しいのかといえばそうでもないのである。文語俳句と口語俳句は異なる俳句と考えればよいのである。口語俳句は一行詩の要素を含んだ現代的俳句なのである。案外これからの若者には受ける俳句なのかも知れないのである。これは「携帯俳句」向きでもあり、携帯俳句が将来、やりようによっては流行るかも知れないのである。口語俳句で句集を出せば「新しい感覚の句ですね」などと言われるかも知れないのである。でも、私はやるつもりはないのである。切れ字に嫌われたくないからである。試しに作成することはよいと思うが、継続的取り組みは、若者に任せれば良いのである。
2008.1.5