季語の新分類

                                      

 吉原の太鼓聞こえ更(ふ)くる夜にひとり俳句を分類すわれは

 これは私の好きな正岡子規の歌である。吉原からの男を誘ひこむような楽しげな音楽を聴きつつ真摯に学問をしている子規の姿がまざまざと浮かび、秀歌の一つである。
 さて子規は俳句の一体どんな分類をしていたのであろうか。棚にある俳句歳時記を取り出して見ることとする。

 ご存じのように俳句は季語によって分類されている。子規はその分類をしていたのであろうか。調べる資料がここにはないのでよく分からないが、ふと不思議に思ったことがある。季語の分類の基準がよく分からないのである。何故、月が秋の季語なのか、蟻がどうして夏の季語になるのかなどである。月は一年中夜空に見られるし、蟻は春夏秋に見られるではないか。

 季語とは一体何であろうか。

 季語とは、その季節の雰囲気をあらわす言葉であり、長い年月をかけて多くの人々の英知を集めて分類されたものである。季語は俳句の中核をなすものであり、これがなければただの一行詩である。しかし、これほど重要なものであるのに、多くの俳人はやや曖昧にとらえているのではなかろうか。「火事は冬の季語ですから、真夏には相応しくないですよ。」とか「満月は秋の季語ですから、冬にはいただけませんな。」などと言っているのである。だが、真夏に火事はあるのである。冬の満月は美しいのである。夏に火事があっても、冬に満月があっても当然よいではなかろうか。また本当に火事は冬の季語、満月は秋の季語でなければならないのであろうか。それなら火事に真夏の言葉を付ければよいのではないかという意見が出てくるであろう。しかし俳句はとても短いのである。言葉をたくさん使用できないのである。季語はもともと俳句の言葉か゜短いが故に定められた決まりではなかったではなかろうか。

 そこで私は、季語の新分類、すなわち第一季語、第二季語、第三季語を定めることとする。この方式は今までの季語の分類を改良したものであり、今まで不便と感じられた面も改正するものである。
 では第一、第二、第三季語とは何であろうか。夏を例に上げて定義付けてみよう。

夏の第一季語 (あるいは、夏の絶対季語)

 絶対的に夏しかあり得ないものである。たとえば、夏、真夏、夏の海、夏休み、梅雨、六月、母の日、鯉幟などの季語は絶対的に夏しかあり得ない季語である。これを疑う人は誰一人としていないであろう。季語感はもっとも強いのである。

 夏の第二季語

 夏にちがいないが、しかし他の季節にあったとしてもあまり不思議ではないものである。たとえば、西瓜、紫陽花、兜虫、汗、かき氷、郭公、揚羽蝶などである。これらは夏の季節感の漂う言葉ばかりであるが、西瓜は他の季節にも時々見られるようになったし、兜虫は秋にも見受けられるのである。しかし一年中、確実に見られるというものではない。

 夏の第三季語

 歳時記において夏の季語として分類されているが、他の季節においてもよく見られるものである。たとえば、ビ一ル、金魚、寿司、アイスクリ一ムなどである。これらは何となく夏に相応しいというあいまいな理由で夏の季語に分類されているものである。金魚など一年中飼われているし、寿司は冬でも食べるのである。つまり現代においては季節感があいまいになってしまっている季語であり、この第三季語は季節感がとても弱いのである。

 この分類法の利点を上げるなら、季語が重なったりした場合の分類が容易であり、季節感の強弱が把握しやすくなるという点である。

 では、夏の季語と他の季節の季語とが重なった場合を考えてみよう。

  大寒や部屋でおいしくビ一ル飲む

 本当にどうでもいいような句であるが、説明句として示しているのである。大寒は冬の第一季語であり、ビ一ルは夏の第三季語である。第一季語は絶対季語であるので、季節感がとても強く、これは冬の句ということである。実に当たり前のように思えるであろうが、このように決定すると曖昧な解釈がなくなってしまうのである。
 また、ある季節の第二季語と別の季節の第三季語とが重なった場合、その句は第二季語の句となるのである。

満月を眺めて美味しくアイス食ふ

 この句の満月は秋の第三季語であるが、西瓜(一部の歳時記では秋にしているが、現実感が全くない。私は夏が相応しいと考える。)は夏の第二季語である。よってこの句は夏の句というわけである。

 また第三季語どうしが重なった場合、その句は今まで通り「二重季語の句」となるわけである。しかし秀句はほとんどないであろう。また第一季語どうしが重なるということはないので考慮する必要はない。

 以上のように解釈すれば、今までよく見られた二重季語の問題は解決され、季節感を容易に推し量ることができ、気楽に季語を使用できるようになるのである。
 俳句の分類法について、今まであまり省みられない傾向があるが、この分野をもっと研究してもよいのではあるまいかと思う次第である。 


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