打算の批評
批評の上手な方は、句友などから句や句集などの批評をよく頼まれるであろう。句友であるから、句の良い部分を中心に賞賛するであろう。問題点は軽く指摘するか無視するかであろう。結社のライバル関係にある場合は、相手を貶すことを中心に批評するであろう。ここにはある程度の打算が働くのである。しかし、社会生活上、ある程度認められていることである。
さて、批評は客観的に行われなければならないことは、自明の理である。相手が人間的に嫌いな俳人であったとしても、その俳人の句の良い部分や問題点など的確に批評すべきである。だが、人間は感情の生き物である。ロボットではないのである。感情に左右されるものである。そこから批評の観点が生み出されることもあるのである。であるから、まったくの客観批評は難しいのである。それができたら本当に大したものである。私にもなかなかできないのである。相手が句友であるとつい甘い批評をしてしまうのである。人間が甘いと言われても仕方ないのである。しかし、問題点は見えているので、酒の席などにやんわりと言うこともあるのである。これが雑誌などで大々的に行われることもある。それらを読むと、仲間褒めはほどほどにしておいた方かいいと思うのである。下手な句集を「驚きをもって迎えたい」などと批評している文章を読むと、「恥ずかしくないのか!」と思うのである。
もしかしたら「褒め殺し」なのかと疑ってしまうのである。
兎に角、「俳句の批評」は客観的であると同時に、恥ずかしくない文章であるべきである。
2007.10.6