俳句の感動

 感動を句に表現することが大切であるということは知っている。では感動とは、そもそも何なのであろう。実は感動が当たり前すぎて、感動とは何であるかについて明確に考えたことはなかったように思う。写実と心象の場合の感動も異なるであろう。また、写実でも形式によって感動が少し異なるように思う。
 まず、写実の場合の感動について考えてみよう。
 写実の中心的位置をしめている写生の場合、対象をまず観察するのである。じっと眺めて、ふとある発見をするのである。たとえば虚子の名句で考えてみよう。

流れゆく大根の葉の早さかな    虚子

 この場合の発見は、大根の葉の流れの速さである。川を流れ行く葉の速さの美しさに虚子は素直に感動したのである。情景を想像してみても、私にも美しく感じられるのである。またこの美しさは、その時まで誰も発見していなかったのである。美しい情景の最初の発見者である。これが強い感動なのである。すなわち、感動とは新しい発見に対して賞賛しようとする心の動きである。
 これは取り合わせの句にもいえることである。二つの対象の取り合わせの素晴らしさである。だが、取り合わせの句の場合、感動はやや低いものとなってしまうであろう。写実の中心的感動は、写生における一点の発見にあると私は考える。
 さて、心象句の場合であるが、感動の中心はやはり比喩であろう。

一枚の餅のごとくに雪残る   茅舎

 この句の感動は、残り雪が一枚の餅のように見えたという比喩にある。この比喩の素晴らしさに作者だけでなく、多くの人々が感動したのである。またこれは簡単なように見えてなかなかつくれない比喩でもある。素直に見えてなかなかできない比喩に高い価値があるのである。心象の才能は比喩の卓抜さにあると思うである。しかし比喩は間接的表現であり、人によってはあまり感動しないという方もいるのである。しかし、それは詩的センスの問題であろう。その人のセンスによって感動する場合もあるがそうでない場合もあろう。
 感動するか否かは、最後は鑑賞する側のセンスの問題なのである。

                                              2007.12.30