俳句と俳論の関係

 「俳句と俳論はどっちが重要ですか?」などと質問をする方がいる。「俳句の方が俳論よりも重要である」という答えが当然返ってくるであろう。
 「はたしてそうだろうか・・・・・・」などと、ひねくれて言わないのである。
 俳句が俳論よりも重要なことは私にも分かるのである。なぜなら、俳句があって俳論があるのである。俳句が主であって俳論は従である。俳論は俳句及びその環境を批評することから成立しているのである。俳句のない処に俳論はないのである。しかし、である。俳論は俳句をより良くすることに役立つのである。俳句向上にとって、また啓蒙活動にとって、どうしてもなくてはならないものである。
 また、俳論は俳句に比べ圧倒的に少ないのである。その理由は今回あえて指摘しないが、これは事実である。俳論は俳句よりも難しいということである。書き手も少ないのであるが、俳論ばかりやっていると、俳句の方がおろそかになりやすいのである。現に私がよい例である。この頃俳論ばかりで、まともに俳句を詠んでいないのである。だが、これも仕方ないと思うのである。俳句か俳論かどちらかに偏りやすいものである。特に熱中すればそうなるのである。一時的に俳論に熱中することは大切である。なぜから自分の俳句を振り返ることにも繋がるからである。自己を客観的に眺めることができるのである。また自己の俳句を総括したり、統一したりすることにも役立つのである。この一年あまり俳論中心の活動であるが、また俳句中心の活動に戻ろうと思うのである。俳論活動は恐らく俳句づくりにも役立つであろう。

                                           2007.10.8