子規の糸瓜三句


 死に際に子規は、次の三句を残している。

(一)をとゝひの糸瓜の水も取らざりき
(二)痰一斗糸瓜の水も間にあはず
(三)糸瓜咲て痰のつまりし佛かな

 まさしく辞世の句そのものであり、気負いもなく、自分の死をユーモアを交えて迎えようとしている。人間的にもとても大きな人物であったことは間違いないのである。

 子規は何故辞世の句に糸瓜を選んだのであろう?
 子規庵の庭には大きな糸瓜の棚があった。糸瓜の汁は化粧水としても使用されているが、その当時、結核の薬としても使用されていたので、糸瓜を植えていたのであろう。子規が死んだのは9月19日であるから、糸瓜の花が棚にたくさん咲いていたであろうということは想像できる。子規が辞世の句しとして糸瓜を選んだのは、薬として役立つだけでなく、自分にとって毎日眺める身近な植物だったからであろう。また死に際に棚の糸瓜の花は咲きそろっていたのであり、子規はそれを微笑みながら死にゆく自分を客観的に眺めていたのかも知れない。
また糸瓜の形は何となくユーモラスであり、ユーモリスト子規にとっては相応しい植物である。花は黄色であり、その色は中国では尊い色とされ、子規にとって一番似つかわしい色である。
 子規は糸瓜が大好きだったのである。辞世の句として選ばれて必然の植物だったのである。
「へちまよ。結局役には立たなかったが、最後までお世話になってありがとう。」である。

(一)をとゝひの糸瓜の水も取らざりき

『薬として使っていた糸瓜の水もおとといから採らなくなったものだ。もう私も駄目らしいな。』という意味であろう。諦め感が漂っているではないか。

(二)痰一斗糸瓜の水も間にあはず

 『痰を今までに一斗ほど吐いたが、結局糸瓜の水は私の病気役には立たなかったものだよ』という意味であろう。痰一斗にはユーモアも感じられるが、この句にも諦め感が漂っている。

(三)糸瓜咲て痰のつまりし佛かな

 この句には諦めだけでなく、最高のユーモア感覚が漂っており、子規の子規たる代表作である。
『糸瓜の花が咲き揃い、痰の詰まった佛である私を包んでいくれている。糸瓜の花は私の死への門出を祝ってくれているではないか。はははは・・・』という意味であろうか。子規には悲しみは似合わないのである。自分の死さえも祝って欲しい、そんな感じがするのである。俳句だけでなく、この人間的大きさに多くの人が惹かれるのである。子規は俳句だけでなく、その人間性と共に永遠に人間味のある俳聖として称えられるであろう。
                                    2006 1 1

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