閃き

 句が閃いたという俳人がいる。この閃くということは何なのだろう。閃くとはよい文句や句が頭に瞬間に思い浮かんだということなのであろう。
 良い句ができたということは、写生でいえば新しい角度での発見があったり、二つのおもしろい組み合わせの場面が見つかったりしたということであろう。心象でいえば、はっとするような比喩や奇妙な場面が思い浮かんだりしたということであろう。閃いた時、すぐに俳人は文字にするであろう。閃きが文字になった時、俳人はにんまりするであろう。また上品な俳人は微笑むであろう。アドレナリンが血液に噴出してとてもいい気持ちになるのである。
 この閃くということは、人によってはよくあるかも知れない。また希であるかも知れない。しかし、閃きには質があると思うのである。閃いたけれど、翌日にはとてもつまらなく感じたりすることもあるであろう。この閃きが他の誰もが感じたことのないものであったらとても凄いことである。新しい発想や考えは閃きによってもたらされるからである。
 さて、俳句の閃きは思想などと比べればとても小さいものであるけれど、閃きの基本単位のような気もするのである。大きい閃きへの一歩としての閃きである。
 この小さな閃きが大きな閃きへ繋がる例を考えて見よう。例えば、俳句上における大きな閃きとして、子規「写生論」を考えてみよう。この写生論の考えが後生に与えた影響はとても大きかったのである。だが、この発想は絵画における写生から得たものらしいが、これを俳句に応用できると閃いたのである。これは大きな閃きであった。だが、この前に子規は写生を無意識のうちに実践していたのである。即ち、物をよく観て俳句を詠んでいたのである。それは初期の子規の俳句をよく観れば理解できることである。そして物をよく観ることにより、写生俳句を無意識のうちに実践していたのである。そしてこの方法は何となくいいものとして、認識していたであろう。その姿勢があったからこそ、絵画の写生論は俳句に応用可能であることにすぐ気づいたのである。子規が心象俳句派ならば、俳句写生論には至らなかったであろう。
 どんな閃きであろうとも、俳句の閃きはとても重要である。閃きがなくなった場合、それは俳句文学としてのお終いである。後は惰性でしか句が詠めなくなるであろう。すべからく過去から学習すべしと唱える方がいる。それは一面の真理を含んでいるが、終末の文学であり、模倣の文芸である。

                                         2008.1.12