「古池」の句鑑賞

古池や蛙飛こむ水のおと      芭蕉

 この句は、「古池に蛙は飛び込んだか」という著作の中で、長谷川主宰が大いに分析している。結論として、「古池」は芭蕉の心の中にあり、現実にはどこにも存在しないものであり、蛙は古池にはとびこんでいないと結論づけているのである。
深い分析のなされた結論である。その分析結果を尊重し、私流に考えてみたい。
さて、芭蕉の弟子の支考によれば、最初、芭蕉は「蛙飛こむ水のおと」が先にできたということである。その後、その場にいた其角などと話し合って、上五を決めたということである。其角は「山吹」を提案し、

山吹や蛙飛こむ水のおと      芭蕉+其角

しかし、芭蕉はその提案を退け、古池を考え出し、

古池や蛙飛こむ水のおと       芭蕉

となったのである。

 つまり「古池や」は後付であり、中下句と比べ扱いが軽いのである。
 さて、「蛙飛こむ水のおと」は「古池や」に比べ扱いが重いのである。変更がないのである。なぜであろう。それは写実だからである。「蛙飛こむ水のおと」はよく聴く、あるいはよく観る場面だからである。芭蕉も子供の頃、どこかで出会っているのである。この「水のおと」が主眼である。このおとを生かすために、上五があるともいえるのである。
 つまり上五は「水のおと」を生かすものなら何でもよかったのである。空想でもよいということである。そして「水のおと」の響きを最も生かすものは、空想としての「古池」だということである。山吹以外にもいくつか上五を置くことができるが、どれもしっくりとしないのである。やはり「古池」が最もよく、それを選んだ芭蕉はするどい感覚の持ち主だということである。
 さてもう一つの問題がある。それはこの句をどのように解釈するかということである。私は解釈がいくつか成り立つ場合、「作者の解釈」が最も重要だと考えているのである。芭蕉はどのように解釈してほしかったのであろう。この句は芭蕉が生きていた頃からすでに名句となっていたのである。その当時の主流の解釈も存在していたのである。それは芭蕉の解釈でもあった筈である。もし違うなら芭蕉が否定していたであろう。そのように考えると最も妥当な解釈は案外平凡なのかも知れないのである。

                                         2008.9.14