韻文家と散文家
小説家の中には、余技として俳句を作る方が結構いるらしいのである。そして共通していえることは、表面的には俳句を軽い文学として捉えているらしいのである。
「俳句は所詮、俳句だからね。真剣にやるもんじゃないね・・・」
などと宣うである。しかし、あまり上手ではないのである。なぜなら、散文の小説家は、韻文の才がない方が多いからである。韻文と散文の才能は明らかに異なっているのである。たとえば、文豪である森鴎外は短歌を詠んでいたが、それほど上手とはいえず、歌壇史に残ったは短歌は一つもないのである。歌に感動がなく、はっきりいってつまらないのである。鴎外は、とことん散文家なのである。
小説家は俳句を表面的には侮蔑しているが、内心はそうでもないらしいのである。何とか名句をものにしたいと思っている方も多いのである。しかし、佳句もなかなか作れず、俳句のような短いものに振り回されるということになるのである。それで俳句を侮蔑することで自尊心が傷つかないようにしているのである。
俳句から小説家を目指そうとした方もいる。高浜虚子もそうであった。ある時期、俳句よりも小説の方が高級と考えていたようである。しかし、散文の才はそれほどなかったようで、結局俳句の世界に戻ったのである。それで良かったのである。自分の才能がどこにあるかを知っている人は、頭が良いのである。己の能力を知っている虚子は本当に頭の良い人である。またそういう人は人間を育てるのも上手なのである。政治家でも成功したかも知れないと思う。それは兎も角、散文家も韻文家もお互い相手の領域に興味をもっているのである。しかしそちらの方の才能がないため、彼岸に佇むのである。
2007.8.17