抽象的季語と具象的季語
小山宗太郎
季語の多くは具象的季語である。たとえば「桜」「秋刀魚」「鶏頭」「五月雨」等、はっきりと目で確認できるものである。だが、「春」「漱石忌」「一月」「山笑ふ」などの季語はどうであろう。理解はできるが目で確実に確認できにくい抽象的季語である。
具象的季語で句をつくる場合、その季語の印象を明瞭にすることによってよい句はできる。具象的季語の名句はほとんど全部そうである。印象不明瞭な名句を挙げるのは難しいであろう。
だが、抽象的季語を使用した名句はどうであろう。
一月の川一月の川の中 飯田龍太
この句は龍太の名句としてよく知られている。「一月」という季語を二度使用している珍しい句である。「川」も二度使用している。繰り返しによってリズム感のある句となっている。この句が名句になり得たのはリズム感である。一月という季語には大きな意味があるのであろうか。一月(いちがつ)が三月(さんがつ)の四音だったとしても句の雰囲気は変わるがリズム感は失われていない。恐らく名句となり得たであろう。
三月の川三月の川の中
これを四月(しがつ)や九月(くがつ)の三音の季語でつくったとしてもリズム感が崩れるので名句にはなれなかったであろう。一月という抽象的季語の雰囲気は具象的季語のそれよりも重要ではないのである。たしかに一月の雰囲気はある。しかし三月でもよいのである。抽象的季語の使用は句そのものも抽象的俳句になりやすく、季語の抽象度が句の印象度も決めているのである。
よって春のような抽象的季語を使用する場合、その他の要素を明瞭にしたりして句の印象を強めようとするのである。たとえば、
バスを待ち大路の春をうたがはず 石田波郷
作者がバス停でバスを待ちながら周囲の春の雰囲気を眺めているという場面である。この句はバス停の場面の印象が重要なのである。「バス停で待つ」という具体的場面が春を印象づけているのである。
結論として、句を印象づけるために具体的であるということがとても重要な要素なのである。一月の句のようなリズム感を尊重したものを除いてではあるが。例外はどこにでもあるということも結論としていえることではある。
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