一人称の文学

 俳句は基本的には一人称の文学であるといわれている。だが一人称とはどういうことなのであろう。よく考えると、この一人称はさらに分類できるのではなかろうか。
 まず、その一つは、作者が行動によって為す場合の一人称である。

朝顔に佛の水をそそぎけり     坂内文應

 この句は、作者であるお坊さんが朝顔に水を与えているということである。作者が行為を実際に為しているのである。これが本当の一人称である。一人称の文学である。
 もう一つは、作者が眺めて作成する場合である。

運ばるる氷の音の夏料理     長谷川 櫂

 この句は、作者の所に夏料理が運ばれてくる場面であるが、まず氷の音から聞こえてきて、次に料理が作者の目の前に現れるのである。この形式が俳句において、もっとも多いのである。眺める一人称である。

 それから、その対象の立場で表現する場合もある。対象に成り代わる一人称である。

円空を見上げてゐたる蟻地獄      孝治

  これは表現者が蟻地獄の立場で表現したものである。これは決して三人称ではないのである。一人称の変形である。作者が蟻地獄となったのである。以前、「俳句の主体」で述べた時にはこのことに気がつかなかったのである。この分野であたらしい形式の俳句が作れそうに思うのである。すなわち、成り代わりの俳句である。作者が犬になって、犬の視点で眺めて俳句を作るのである。どうなのであろう。おもしろい俳句ができるであろうか。何ともいえないのである。だが、試みる価値はありそうである。
 さて、これ以外に回想の句はどうであろう。作者が昔の少年の頃を回想して詠んだ場合である。

角巻を被りし母の美しく      孝治(小学生の作者)

 この句は私が小学生一、二年の頃であろうか。心に残っている場面を句にしたものである。手をつないで母と雪の降る街を歩いていたのである。下から母の姿を見上げているのであるが、角巻を被っている姿の母がとても美しかったことを印象的に覚えているのである。俳句は回想には向かないのかも知れないが、印象の強い場面は句にできるよう思う。
 さて、これは作者が少年の頃の自分になって句を詠むという形式をとっているが、これは成り代わりの一人称である蟻地獄の句と基本的には同じであろう。だが、作者が少年の作者になっているのであり、人物が成り代わってはいないともいえるのであり、両方の要素をもった形式である。回想の俳句も何かできそうに思う。

                                    2007.12.8