実感

 句会などで、「この句には実感がありますね」などという批評を聞くことがよくあるのである。この実感とは何であろう。思うに、実感とは「実際に対象を観て詠んだ句であるという感じを相手に与える」ということであろう。
 よく月並みな発想に、「梅に鶯」がある。そんな句が句会に出されたら、実感があるとは思わないであろう。月並みということだけでなく、「対象を見ないで作ったんでしょう」と思われてしまうであろう。つまり実感がないということである。実際に見た場面を句にしたとしても、月並みは月並みであるということで、相手が実感まで感じてくれないのである。
 さて、「この句はつきすぎて、実感がないですね」と批評する方がいるのである。このつきすぎるとは何のことなのだろう。思うに、あまりにもぴったりと当てはまり過ぎているということなのだろう。たとえば、「猫の目の前に魚が落ちていた」という感じである。「取り合わせの句」で二つの物があまりにもぴたりと合うこということである。あまりつきすぎると作ったという感じがするし、離れすぎると違和感が出てしまい、句としての味わいがなくなってしまうのである。離れすぎているとは、「善行をしたら、宝くじで一千万円当たった」というほとんどあり得ないような取り合わせのことである。二つの物が「やや合うといった感じ」が実感があるということなのであろう。これは俳句をもって説明しないと実感が湧かないであろう。具体物ということは実感にとってとても重要ということなのである。

                                               2008.1.5