俳句小説で純文学

 今風の俳句小説を書いているのである。しかし、何か今一つパッとしないのである。何故だろう。ストーリーや技術だけの問題ではないのである。・・・・・・そうである。じゅ、じゅ、純文学を私は書きたいのである。そのことにたった今気がついたのである。俳句小説などは読んでもらえそうもないのである。また純文学も同様であろう。どうせ読んでもらえないならば、純文学をやってみるべきだと思うのである。文学の中でも純文学が最も価値が高いと言われているのである。文学をやるんならやはり純文学である。三流でも純文学である。腐っても干物でも鯛である。よし、やろうと決心した次第である。
 さて、ここで問題となったのは、
(純文学ってのは何だろう。どんな小説が純文学なんだろう)
 ということである。
 この頃純文学をほとんど読んでいないのである。昔、教科書で読んだ夏目漱石や森鴎外などの作品がそうなのだろう。それらから純文学は何であるのか、推測してみたい。
 純文学で大切なことは、主人公が苦悩することである。これは絶対条件である。「心」の先生も、エリスを裏切った豊太郎も深刻に悩んでいたように記憶している。それから、ハッピーエンドで終わってはいなかったのである。またそのような終わり方をしてはいけないのである。そして魅力的な女は必ず出てくるのである。主人公はその女とは不幸な結末にならなければならないのである。主人公のライバルも必要である。それも大きな存在であり、最後は負けるのである。主人公は決して勝者にはならないのである。そう考えると純文学とは、失意の文学であるといえるであろう。
 これらを踏まえ、次のような設定で如何であろう。
 主人公は俳句青年としよう。それも二十代の有望な若手俳人である。俳句に関する純文学である。ライバルは大学の文芸部の友人で、小説家のタマゴということにしよう。彼は俳句をやっている主人公に対して優越感を持っているのである。その文芸部に美しい女がいて、その女の取り合いをするのである。もちろん主人公は女にも友人にも俳句にも人生にも自分自身にも裏切られるのである。そして失意のうちに、

「私は芭蕉の気持ちが分かったような気がする」

と、呟いて俳句の旅に出かけるのである。そして第二部が、本格的な俳句純文学が始まるのである。出会いにはやはり魅力的な女性が登場し、とは決してならないのである。呑気な俳句作りの旅ではなく、俳句十番勝負の旅である。真剣勝負の旅である。引き下がることのない突き進む修行の旅である。信じるものは自分の才能だけである。そして最後にたどり着く境地とは、俳句開眼とは、どういうことなのであろうか・・・・・・。
 どうであろう。こんなストーリーで純文学ができるであろうか・・・・・・。

                                           2007.11.21