俳人格の考察
俳人の人格とはどんなものなのであろう。どんな人格でもよいではないか。俳句が好きならばそれでよいではないかと多くの人は言うであろう。たしかにそうではあるが、以前から気になっていたことがある。私は俳句をやる前は短歌をやっていたが、どうも歌人と俳人では人格が違うのである。私の人格は歌人とはなかなか合わないのである。しかし俳人の方とは波長が合うのである。私の人格は俳句向きであるという気もしているのである。
ということは、私の人格及び私の先生を含め周囲の俳人たちの人格や俳句を分析すればその傾向を導き出すことができるのではあるまいかと思うのである。
俳句は、大人の文学であるといわれている。省略の文学であるといわれている。抒情のようなめめしい感情はあまり必要ではないようである。抒情を含む作品は芭蕉も蕪村も子規もほとんど詠んでいない。また、ユーモアの分かる方が多い。俳句はそれを認めており、多くの俳人たちがユーモアのある句を詠んでいる。そんな句を詠めないようでは才能が乏しいのではないかと考える人たちがいる位である。ユーモアの分かる人間は人間が大きいとか、ゆとりのある人だとか言われている。
精神にゆとりがあり、大人であるということは、日常生活において感情を顕わにしないということである。よって俳人は社会生活に適応している方が歌人と比べ多いように思う。これは私自身の経験から導き出したことである。
また、俳句は短い。短歌と違って自分の意見や感情を述べるスペースがない。省略しなければ作品として成立しない。人によっては欲求不満になりやすいが、大人はそうはならないのである。俳句がそんなものであることをよく理解している方たちなのである。
また、私が若い方に俳句を勧めてもなかなかこの世界に入ろうとはしない。若い人たちが自分の意見を押さえる、あるいは述べられない文学に興味を示さないのは当たり前である。若者が好む歌謡曲の歌詞を読んでも分かるのである。感情一杯の内容である。こうでなければ若い人たちは見向きもしないのである。今後も若い人たちは残念ながら俳句には興味を示さないであろう。俳句はそういう宿命を背負っているのである。大人の文学たる所以である。
俳句は座を大切にしている。句会は楽しい。点数を入れる行為はゲーム感覚に近いものがある。点数が多く入ったからよい句であるとはいえないが、それでも自己満足を得ることができる。中には人間関係を配慮して点を入れるような方もいるが、それも多くの方々は許しているのである。人間が大きいからであろう。連帯感を大切にしているからである。
俳人の人格として、ユーモアが分かること、精神的に大人であるということ、文学が好きであること、めめしくないこと、人間の交わりが好きであること、他の文人と比べ長生きをするような健康さをもっていること、古いものが好きであることなどが考えられるであろう。そしてこのような人格をもった方で、努力家であり観察力があり想像力のある俳人が大成するのであろう。
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