自由律俳句
                                      

 俳句の流派の一つに自由律俳句がある。代表的俳人に種田山頭火、尾崎放哉、荻原井泉水などが知られている。私は三頭火、放哉が好きである。花鳥風月派、特にホトトギスの方々はこの流派を嫌う傾向にある。こんなものは俳句ではないとばっさりと切り捨てる方や全く無視している方も多い。
 俳句の俳句たる要素は二つある。それは「五七五の三つのリズム」と「季語」である。自由律俳句はこの二つをどのように捉えているのであろうか。ここに幾つか自由律俳句を上げる。

後ろ姿のしぐれてゆくか            三頭火
笠にとんぼをとまらせてあるく         三頭火
咳をしても一人                 放哉
入れものがない両手で受ける        放哉
お墓の道は何となく暗くてほうたる     井泉水
太陽のしたに是はわびしき薊が一本    井泉水

 自由律といえどもリズム的に三つに分けられるものが多い。しかし「咳をしても一人」のように二つに分けられるものもある。四つに分けられたものは数が少ない。一つ、五つ以上というものはほとんどんない。どこかで三つを意識しているようである。三つからは遠くへ行かないような姿勢である。よって意識している以上、俳句なのである。
 季語はどうであろう。多くの場合季語があるが、「入れものがない両手で受ける」のように季語がないものもある。またこの句は二つに分かれ、どうも俳句としてはあやしい。一行詩、あるいは短詩といわれても仕方ないであろう。私は季語あるいは季節感があり、大体三つに分かれていれば俳句である。また二つ分かれ、四つ分かれであっても季語があれば俳句と認めてよいであろう。
 一部の方々の自由律すべてが俳句でないとかいうのは危険な考え方である。俳句としてどうもあやしいものもあるが、仲間と認めてやってもよいであろう。やや主観的ではあるが、正統俳句が正妻ならば、自由律俳句は内縁の妻である。時には正妻よりも魅力があるのである。文学とは裏があって表が存在するのである。

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