俳句の神様
俳句結社ホトトギスでは写生を重んじており、「俳句は滑稽でも閑寂でもなく、自然をそのまま詠む客観享受の文芸である。」と主張している。そのまま自然を詠むとはいっているが、本当に良い写生句は、句の中に新しい発見がある場合や人生の深みをモノを使って暗喩的に表現している場合が多い。実は写生派とはいいながらも本当の写生派は詩人であり、一般の人がなかなか見つけることのできないものを見つける能力を持っているのである。
写生を一般の人が追求する場合、大きな落とし穴がある。それは写生が些末主義に陥り、虫眼鏡で観察するような細かい事実をなぞっただけの句になってしまうことが多いのである。たとえば、台所の隅に白い黴が繁殖していたとしよう。些末主義の人は、その黴がどれくらい繁殖していたかやどのように広がっていたかなどに注意を向けてしまうのである。定規を取り出し、縦0.8センチ、横1.2センチ。よって面積は、0.96平方センチメートルなどと調べ、「白黴や0.96平方センチの世界かな」などと句を作ってしまうのである。実際こんな句を作る方はほとんどいないが、分かりやすく、大げさに表現してみたのである。だが、これに近いことをやっている方が写生派には、結構いるのである。だが、その些末主義的な句は、私自身それほど嫌いではないのである。些末主義を突き詰めていくと、滑稽の彼岸が見えてくるのである。さらに追求していくと、俳句の神様が見えてくるのである。つまり、普段見えない世界が見えてくるのである。そこには発見されていない俳句が貴方を待っているのである。
先ほどの句に関して暗喩で表現するなら、白黴の世界の中には、白い街並みが遙か彼方まで広がり、俳句の神様が白黴神社の大木の下に座り込み、句を地面に書いている姿が見えてくるのである。その句が解読できたら大したものである。
些末主義の批評を恐れる必要はないのである。偉い詩人は些末主義にとても接近しているのである。ただそのことを一般の人には教えないだけのことである。些末主義は努力を必要とするのであり、俳句は努力すればそれなりの佳句がつくれるのである。些末主義を突き抜けた所に俳句の神様が存在するのである。
2007.6.9