旧仮名遣いと新仮名遣い
                              

 私は旧仮名遣いで俳句を記述しているが、これが難しいという方が若い人を中心としてなかなか多い。若い人たちが俳句をしないのはこのせいだと指摘する人もいる。新仮名遣いで俳句を書こうという人も多くなってきた。また結社で新仮名遣い使用を認めている所もだいぶ増えてきた。
 旧仮名遣いで書く人は、「学べばそんなに難しくないですよ。こつがありますよ。」などといって勧める傾向にあるが、修得するにはそんなに簡単ではないのである。やはり集中して学習する必要があるのである。賢い方は知らないが、私はそうであった。
 だが、学んで良かったと思っている。古典及び近代の俳句は全て旧仮名遣いである。これらを新仮名遣いで書き替えてみるとどうであろうか。とても違和感があるであろう。発音には何の違いもないが、視覚的におかしく感じるし、またあの独特のまろやかな味わいがなくなってしまうのである。
 また、なかなか説明しにくいのであるが、旧仮名遣いを学ぶ過程において、古典そのものの味わいを学べたように思うのである。古典の作成者は旧仮名遣いで書いているのである。それを理解しなくて、作者の心情がが十分理解できるであろうかと思うのである。
 旧仮名を学ぶことには価値がある。これは間違いのないことである。旧仮名を学んだ人に聞いてみるとよい。これを学んで時間の浪費だったと答える人はまずいないであろう。旧仮名は教養である。
 しかし、どうしても俳句に旧仮名を使用しなければならないであろうか。私は旧仮名遣いの使用を押しつけることはしない。旧仮名の良さは説明しても、結局は好きな方を選んだらどうですかというであろう。若い人にも俳句を気楽に学んでほしいという気持ちもあるのである。結局は自分の好みなのである。それを大切にすべきであろう。旧仮名に興味を持てばそれでよし。そうでなくともそれでよしである。新仮名使用が増える傾向にあるが、古典が旧仮名であるかぎりそれが滅びることはないのである。

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