俳句と感動
人は俳句の何に対して感動するのだろう。中学生の頃、芭蕉の名句に出会った時、感動したことがあったが、まず、その句の情景が浮かぶのである。多くの人がそうであろう。
荒海や佐渡に横たふ天の川
閑さや岩にしみ入る蝉の声
古池や蛙飛び込む水の音
天の川の句の情景の大きさ、素晴らしさが直ぐに頭に思い浮かぶのである。それに感動するのである。しかし夜であるから、佐渡島は見えない筈であるが、想像では見えているのである。見えてしまう処がこの句の素晴らしさである。名句は一瞬にその情景が目に浮かぶのである。名句といわれるものは全てそうである。蝉の声の句も真夏の山寺での情景が直ぐに思い浮かぶのである。また、古池の句も静かな池に蛙が飛び込む場面がくっきりと思い浮かぶのである。我々はその場面に瞬間的に素晴らしいと感じるのである。
名句の条件は、直ぐにその場面が思い浮かび、そこは多くの人々がすばらしいと感じる場面ということである。そう感じられない句は、名句ではないということである。ついでに付け加ええれば、名句は切れが良いということである。短歌の場合、調べが歌の意味内容よりも価値があると考える人が結構いるが、俳句の場合はまず意味内容である。それから切れである。よい意味内容の句には、よい切れ字が付随しているようにも思われる。名句を詠むためには素晴らしい場面に出会った方がよいということであろう。よほどの力がない限り、想像力だけでは感動的な場面は作れないようにも思うのである。だから昔から吟行や旅が大切とされたのであろう。俳人は机を離れて、芭蕉のように旅といわないまで遠くへ出かけた方がよいのかも知れない。特に写実派の方々は見ることがとても重要である。
「俳人よ、理屈を捨てて実践の旅に出かけよう」
・・・とはいうけれど、出かけるには金と時間がかかるのである。空想はそれらを省略することができるのである。でも空想だけで秀句・名句を作るのはなかなか困難なのである。できるのは比喩の迷句だけであろう。
2007.10.28