感動の質が落ちてくる

 二十代の若い頃は美しいものを見て素直に感動できたものである。詩や短歌、俳句でもそうである。良いものは素直に良いと感じられたものである。しかし、である。だんだんと歳を取ってくると、昔の素直さがなくなってくるように感じられるのである。感性が鈍ってきたのかも知れない。脳細胞が毎日毎日少しずつ崩壊しているのである。それが老化である。人間は誰しもそうなるのである。哀しいことである。しかし仕方のないことでもある。さて、どうしたものだろう。感性が鈍ると上手い句は詠めなくなるのであろうか。感性は鈍ってくるが、知識はそれほど減少しないので、知識で佳句を作るようになるということである。さて、そのようにして作った句は、佳句であったとしても、感動できるのであろうか。恐らく感動できるであろう。しかし、昔とは異なるのである。感動の質が落ちているのである。技巧としての感動である。昔の素直なままの感動は無いのである。
 年寄りは若者に期待しているが、貶すのも上手である。
「またバカ者がへんな句をつくっていますよ。いや、平凡ですよ。幼稚ですな。俳句が分かっていませんね。私が若い頃はもっとましな句をつくってましたよ。ありゃあ、駄目ですな。ハハハハハハ・・・・・・。いやいや、期待しましょう。どれ一つ、私が俳句というものを教えてあげましょう。そうですな」
ということで、親切に教えるのである。しかし感動の質が異なっているので、何かしら無理があるのである。若者も年寄りから教えてもらいたくないと考えるのである。これは仕方のないことである。年寄りが若者に文学を教えることは昔から無理なのである。年寄りは若者の句の欠点を知ってはいるが、無視するに限るのである。余計なことは言わない方がいいのである。賢い若者は自分で気づくのである。自分で気づくのを待つのである。俳句は待ちの、大人の、文学である。

                                              2008.5.9