感情俳句
俳句で、美しいや楽しい、嬉しい、麗しい、悲しい、苦しい、汚い、無情だ、泣きたいなどの感情を示す言葉は、基本的に句に入れてはいけないことになっている。しかし、これは本当にそうなのであろうか。まず今まで感情語を入れた俳句にはどんなものがあったのかを考えてみたい。
手毬唄かなしきことをうつくしく 高浜虚子
酌婦来る灯取蟲より汚きが 高浜虚子
麗しき春の七曜またはじまる 山口誓子
よろこべばしきりに落つる木の実かな 富安風生
羽子板の重きが嬉しつかで立つ. 長谷川かな女.
美しき春日こぼるる手をかざし 中村汀女
うつくしきあぎととあへり能登時雨 飴山実.
数は少ないが、これらの句を俳人なら知っているであろう。決して秀句名句が詠めないということではないようである。
では何故入れてはいけないのであろう。それは安易に感情語で気持ちを示さず、ものなどで示すべきであるという客観写生の考え方があるからである。たしかにその考えには一理あるのであり、簡単に「まあ、美しい花ですこと」なんて言ってはいけないのである。みんなが知っている美しいものを美しいと表現してはいけないということである。では、みんなが知らなかったものを美しいと表現したらどうであろう。
うつくしきあぎととあへり能登時雨 飴山実.
うつくしき女とあへり能登時雨 改
飴山実.は能登で出会った女の「あぎと」をうつくしいと表現したのである。これは発見である。また意表をついた表現である。これを「女」に変えたら、まず句座で選ばれることもない凡句となったであろう。
感情語は、俳句に使用しても良いのである。ただし、人がほとんど気づかないものを表現しなければならないということである。よって、使用が難しいのである。このような感情語を秀句に入れて詠むことができる俳人は大した才能と言うべきであろう。凡人はあまり真似しない方がよさそうである。
2008.1.19