俳句の鑑賞基準
我々が句を鑑賞する時、何らかの基準をもって行う。写生派ならば写生という観点から句を鑑賞するであろう。写生こそが最も相応しい句であると考える人たちは、心象風景がまじっていれば決して高く評価しないであろう。また前衛派の方々は、写生を月並俳句として高く評価しないであろう。句だけでなく文学そのものに鑑賞の基準があり、それに従い流派も生まれてきたのであろう。だが、芭蕉の句はいろいろな流派の方々に大きな影響を与え、また多くの人たちに高く評価されてきた。これは一体どうしてだろう。
それは流派を問わず多くの人たちに深い感動を与えるからであると考える。芭蕉の句は写実的なものが多いが、心の奥底に響く。心象派と称する方々もその深さに心を揺さぶられるのである。心象派の方々も多くの場合、出発点は写実から始まっている。子供の頃はそうであったはずである。それに飽きて心象派、前衛派となっていったのである。よいものはよい。理屈を抜きにしてよい。そういう理由もあると考える。理屈派の方々もそれは認めてよいのではあるまいか。学習によって得られた流派としての価値基準よりもさらに心の奥底にある人間としての美的価値基準を多くの詩人はもっているのではあるまいか。その部分に芭蕉の句は響くのである。
だが、中には理屈を述べないで雰囲気で良い句とする方々もいる。たしかに言葉ではなかなか説明できにくい秀句もあるだろうが、理屈や理論をほとんど無視する方々は決して伸びないであろう。鑑賞力は自分の句にも大きな影響を与えるのである。何がよくて何がよくないかを整理して考えること、これはとても大切な鑑賞態度であると考える。
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