「かるみ」を考える

 芭蕉が晩年たどりついたとされる「かるみ」とは、何であろう。芭蕉の句は深みがあって、重い。その反動としてのかるみだったのであろうか。人生を真摯に送っていると、それがふと嫌になることがある。重いだけでない、人生を難しく考えずに軽く捉えることもできる、と悟ったのであろうか。真面目な人ほど、自分にはできないと思われる生き方・考え方に惹かれることがある。我々現代人もそうではなかろうか。かるみは芭蕉にとって一番遠い精神だったのではなかろうか。だからかるみにたどり着いたとも思われるのである。一番難しいことが一番最後にやってくるのである。
 この「かるみ」の反対用語としての「重み」を多くの俳人がめざしているのではなかろうか。芭蕉の名句のほとんどは、重みから詠まれているのである。芭蕉がはじめからかるみの精神で句を詠んだら名句は決して生まれなかったということである。芭蕉はやはり「重み」の人である。決してかるみの人ではないのである。でも芭蕉はかるみをめざしたというのである。
 このかるみとは具体的にどういう概念なのであろう。かるみに一番近い言葉として「ユーモア」が上げられよう。大笑いではないのである。虐待の笑いではないのである。人生のある歪みを指摘した深みのある笑いであり、余裕のある笑いである。このかるみは、もしかしたら、精神基盤に重みがあってのかるみなのかも知れない。精神基盤に何もなくてのかるみは恐らく「軽薄」ということなのであろう。一般の人は、かるみには最初から手を出さない方が無難である。芭蕉のように重みのある句をめざして詠むべきである。それで終わってもよいと思われる。「かるみ」は禁断の果実のようなものである。そんなものを最初から目指してはいけないということである。

                                         2007.1028