はじめに
この頃、俳諧の歌仙を行う俳人が増えてきたので、私も一つ詠むことにしたのである。この歌仙は、あるお寺の地獄絵図からヒントを得たものである。
さて、歌仙についてであるが、まだよく知らない方もいるようなので簡単に説明してみたい。
歌仙は1巻36句で構成されており、まずは「五七五」の発句から始まり、次に「七七」の句が付くのである。それを交互に繰り返し、36句詠むのである。歌仙は数人で行う形式が普通であるが、私のように一人で行ってもよいのである。いろいろと複雑な決まりがあるが、それは省略することとする。(本当に興味のある方は、インターネットで直ぐに調べられる。)
さて、芭蕉の頃の句会といえば、連句や歌仙づくりが主流であり、現在行われているような形式で句会は、行われていなかったということである。芭蕉のよく知られている句はほとんど発句であり、歌仙の最初の句なのである。発句は挨拶句ともいわれており、それから「俳句は挨拶なり」という考えが出てきたのである。芭蕉は発句づくりよりも連句、歌仙づくりの方に力を入れていたようであり、これが現代の俳人にはあまり理解できないのである。であるから、芭蕉はどのような気持ちで歌仙づくりをやっていたのかを知るには、実際に実践してみるのが一番である。だが、実践して感じたことは、歌仙は一人でやるものではないということである。楽しいという感じがあまりしないのである。歌仙は何人かの俳人が集まって、話し合いながら楽しみながら酒を飲みながらやるものである。それが歌仙の魅力なのであろう。しかし、文学的価値という観点からは、合同の歌仙は価値が乏しいであろう。やはり文学的価値というならば、一人でやるべきである。自由に構成して、統一感を示すべきである。だがそれは俳諧ではないのかも知れない。
また、俳句は正岡子規が考え出したものであり、この俳句づくりが明治以降主流となり、連句や歌仙は滅んでしまったのである。滅んだ最大の理由は、複数の合同文芸は文学的価値がない、あるいは認めないということなのであろう。文学は個人の営みでなければならないという西洋の文学思想の影響なのかも知れない。ここに文学の、ある種の閉塞感があるのであろう。明治以前の「文芸は複数で営むものなり」という日本的文学思想の復活も、ある意味価値があるのかも知れない。