シュール評論

 形而上学としての俳句は、フジィカル上、エレメンタルとして、あるいは神秘主義を基盤とする精神的主題に関係付けられており、負の遺産としての実存を証明しているのである。ゆえに、形而上する際に是認俳句は、日本の古来の精神論を凌駕し、または瞭然として在するのである・・・。
 などと書けば読者は理解できるであろうか。理解できないであろう。なぜなら書いている本人が全く理解できないからである。このように訳の分からないことを論じて、相手を惑わすような評論がシュール評論というのである。この解釈は人によって異なるであろう。でも私はそう解釈している。
 若い頃、私は短歌を作り、ある結社誌に入っていた。その結社は歌論を重要視していたが、実にわかりにくい文章を書く人が多かった。何度も読み返しても意味がよく分からないのである。こういう難解な歌論を書ける人は大したものだと思っていたのである。今考えると実に愚かである。実は中身の乏しい、簡単なことを述べているに過ぎないのであるが、それでは格好がつかないので、わざわざ難しい言葉やへんな理論で分かりにくくしているに過ぎなかったのである。
 だが、ある偉い人が言うには、全部理解できるような文章では読み手があまりありがたがらないので、全体の8割は理解できる文章で、後の2割は理解できにくい文章を書いた方が良いとのことである。確かにそんなものかも知れないと思う。実際の評論を読んでもそんな傾向が見られるのである。だが、本当によい評論はそんなものではないことをインテリさんたちはよく知っているのである。批評の中身が重要なのである。桑原武夫氏の第二芸術論はとても分かりやすい文章であり、中学生でも理解できるであろう。それでいて多くの人々に衝撃を与えたのである。そんな俳論を書きたいと思う。しかしなかなか書けるものではないのである。

                                                2007.8.14