忌日と季感
漱石忌や河童忌などの季語に季感はほとんど感じられない。季感のない季語と言っても差し支えないであろう。
季感よりも人物の業績や人間性が重要となる季語である。漱石が春に死亡しようが秋に死亡しようが漱石の業績にも人間性にも何の関係もなく、当然句も季感を要求しないのである。何月何日に死亡したかがはっきりしている場合が多いので、季語扱いにしているのであろう。
では、なぜこのような季語が生まれたのであろうか。日本人は過去の偉大な人物を敬う傾向があり、俳人はそれらの方々を句として表現したいという気持ちがあったのではなかろうかと思う。実際、俳句の先生がお亡くなりになった場合、弟子は追悼句会を開くことが多い。その中でその先生を句にする場合、その先生自体を季語にした方がつくりやすいであろう。そういった発想から忌日が生まれたのであろう。実際これらの季語で句をつくる場合、その人物に対する尊敬やまた尊敬といわないまでも何らかの興味があるであろう。まったく興味を待たなければ句をつくることはないであろう。これは私の実感である。
ひとつもどる