季語と俳句
                                         

 俳句に季語はつきものである。季語を必要としない句を提唱している流派も昔から存在するが、一行詩に近いものがある。季語は一行詩と俳句とを分ける特色の一つである。
 さて季語は季節感を示すものである。日本は四季がはっきりしており、それが日本の自然の特色であり、日本の文化もその影響を受けている。俳句は季語を入れることによって日本の文化そのものを受け入れているのである。
 よって季語は日本人には受け入れやすく、季語俳句が広まった理由の一つであると考えられる。現在、俳句は世界的に紹介されているが、多くの場合、四季のある国々中心である。四季のはっきりとしない国の方々にはなかなか理解してもらえないかも知れない。またそういう国には自由律俳句を紹介した方がよいかも知れない。
さて、季語があることにより季節感を句から味わうことができる。それが日本人には快いのであるが、若者にとってはそれはどうでもよいことかも知れない。四季を味わうなどという感覚は年寄りくさいとされ、無意識のうちに敬遠されているのかも知れない。
 だが季語をなくしたらどうなるであろうか。これは泡のないビールである。苦みのないビールである。まずくて飲めたものではない。自由律俳句は俳句とはまた別の文学と考えた方がよいであろう。それならばまた別の飲み物として味わうことができるであろう。

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