季語無意識論
多くの俳人は季語を意識して俳句を作っている。まず季語を選択し、それから内容を考えるのである。この意識を無くした場合どうなるであろう。つまり季語を意識しないのである。眼の前の風景をあるがままに詠んだり、あるがままに空想したりするのである。季語を否定しているのではない。季語を使わないのではない。季語を意識しないということである。どうであろう。俳句はできないであろうか。恐らく俳句はできるであろう。季語の制約から解放されれば無限に俳句は広がるのではなかろうか。季語無用論ではなく、季語無意識論である。季語があっても良いし、無くても良いということである。これは川柳や無季語俳句とは異なるのである。
句集に五七五を基盤とするいろいろな句が入っていると考えればいいのである。敢えて分類しないのである。
2006・1・29