季語は何故存在するのか
小山孝治
和歌の上句が分離して俳句が発展してきた。また和歌には季語というものはなかった。しかし俳句には季語というものが存在する。俳句は短詩である。世界中に短詩はたくさん作られているであろう。だが季語というものはない。何故俳句という短詩だけに季語があるのであろう。
季語とはその季節の雰囲気を示すものであり、その季語についての共通理解が俳句を知る人にはなされているという暗黙の了解がある。よって季語があれば、そのものに対する説明は不要ということになり、言葉を省略できるという利点が考えられる。俳句は短いが故に言葉が省略できることは好ましいのである。この点にも俳句が省略の文学であることが理解できるのである。「季語は言葉を省略するめために工夫された俳句独特の技法」と捉えることができるであろう。
例を出して考えてみよう。
冬の水一枝の影も欺かず 草田男
季語は「冬の水」である。この言葉から連想されることは、「冷たく澄んだ水が静かに存在している」ということである。恐らく俳人の共通理解である。これが外人ならばどうであろう。いろいろな冬の水を連想するであろう。よって季語という概念は外国では理解しにくいのである。理解しても積極的に使用しないであろう。しかし日本の俳人の想像はぼぼ同じなのである。同じような場面を想像するのである。それは俳人の自然に対する学習によるものであろう。季語は四季のはっきりとした、かつその変化の美しい日本のような国でしか通用しない概念なのかも知れない。
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