結社の後継者
 
 俳句の大結社の主宰者が亡くなると、後継者としてその親族から選ばれることが多い。お茶やお花の世界でもよくあることである。それ故、俳句は芸術ではなく、芸であると他の文学の方々から皮肉的に指摘されるのである。第二芸術などという懐かしい言葉も思い出されるのである。
 それはそれで仕方のないことである。それなりの教養人であるならば、努力すればそれなりの俳句が作れるのである。 定年退職となって趣味を持とうとした場合、小説や詩歌には手を出せないけれど、俳句なら何とかなるという理由で俳句をやる方は多いのである。また俳句は「座の文学」というだけに、座の友達を増やすことができ、老後の楽しみとしてはとてもよいのである。そういう人たちにとって、大結社の主宰者にはそれほどの興味がないのである。もっとはっきり言えば、どうでもいいのである。身近に手取り足取り教えてくれる先輩や句友がいればそれでよいのである。
 だから、俳句の結社の主宰者は北朝鮮の金政権のように継承でもかまわないということである。老後の楽しみで俳句をやっている一般会員にとってはそれほどたいしたことではないのである。北朝鮮の民衆のように、苦しみを感じることもないのである。
 だが、そういうものを強く否定し、自分が死んだら結社を解散すると遺言を残す偉い先生もいる。その先生は確かに偉いのであるが、弟子たちにとっては少し迷惑である。なぜなら今までの地位が消滅することになり、また発表の場を失うことになるからである。それで主宰者の意志に関係なく、新しい結社が高弟を中心にして二三できるのである。それはそれでよいことである。一般会員もそれほどばらばらにならずにすむからである。
 私は結社の後継者が誰であろうとよいと思っている。一般会員が俳句を楽しめ、老後を楽しめ、句友と語らい、残りの人生が有意義なものであればそれでよいと思うのである。俳句は、座の文学である。座には人がいて、楽があるのである。俳句の上手下手はそれほど大きな問題ではないような気がするのである。こういうと俳句をバカにしているとか、真摯ではないとかいう方がいるが、そういう人たちは俳句というものを知らないのである。

                                                     2007.6.10