組み合わせれば季語という考え方

 「この句には季語がありませんが、季節感(季感)は感じられますね」という人がいる。季語があればその季節の句であることは確定するが、この季節感とはどんな感じなのであろう。感じを語るのは難しいのであるが、考えてみよう。

青空にぽつかり浮かぶ夏の雲     その一

青空にぽつかり浮かぶ白い雲     その二


 ここに二つの句を並べてみた。作品の上手下手は関係がないのである。
 さて、一の句は、「夏の雲」なのだから、間違いなく夏の句である。否定のしようもない。また、二の句は青空と白い雲ということで、何となく夏の季節感が漂っているであろう。では、季節感はどのようにして漂わせるのであろう。全体の場面から漂う雰囲気であろうか。何となく夏らしいものがあり、そんな雰囲気がするということであろうか。おそらくそうなのであろう。では、俳句としてはどうなのであろう。俳句というより一行詩のような感じがするのである。俳句に季語はつきものである。季語があって五七五ならまず俳句なのである。笑いや批評があっても俳句といってしまって結構なのである。だが季節感だけなら、一行詩、あるいは、川柳、五七五、などといってもよいであろう。明確に俳句とはいえないということである。俳句らしい感じがするということであろう。感じを語るのはなかなか難しいのである。感じには明確な定義がないからである。「何となくそんな感じ」ということである。俳句は季語と五七五という定義があるので、それに従えばよいので実に明確なのである。
 さて、この季節感を何とか無理に定義づけられないであろうか。そこで、定義づけてしまうのである。季語とはいえないが、「組み合わせれば季語」というアイデアはいかがであろう。つまり「青空」と「白い雲」の組み合わせで夏の季語一本ということである。柔道でも組み合わせ一本、という勝ち方がある。その考えを俳句に持ち込んでもよさそうに思うのである。アイデア倒れであろうか。まあそうであろう。しかし、季節感というものを捉える一つの考え方としてはそれなりに意味があるように思うのである。季節感とは場面の組み合わせの妙だということである。

                                    2008.8.18