空想的俳論

 以前シュール批評について書いたことがあるが、いくつか読んでみると空想的俳論というものがあるように思う。シュール俳論と違う所は、意味が理解できるということである。意味が理解できても内容に価値がなく、空想的だということである。
具体的には、こんな文章である。

 俳句は青年の文学であり、その句は一枚一枚の若葉であり、風にそよぐときめきである。青年は俳句の旅に積極的にでかけよう。ほうら俳句の精が青年に微笑みかけてくるだろう。次々と景色が俳句となり、心が五七五の世界に満たされるであろう。これは老人にはない心のときめきであり、若者の特権である。老人から俳句を取り戻そう。若者の特権として俳句を謳歌しようではないか・・・。

 とまあ書きながら嫌になってきた次第である。俳句が青年の文学ではないことは自明であり、出だしから妄想に充ち満ちているのである。こういうまやかしの戯言が時々まかり通っているので気をつけなければならないであろう。だが、お前も戯言を述べているのではないかと指摘されれば無理に否定はしないのである。自分を客観的に眺めてみると、思いつきで書くことがあり、当たることもあれば外れることもあると思うのである。数打てば当たるという考え方はしていないが、当たって欲しいと思っていることは間違いがないのである。

                                                      2008.11.23