客観写生の理解

 この客観写生は、俳句における作成理論の一つであり、正岡子規の写生論を高浜虚子が発展させたものとして考えられている。
 虚子はホトトギスで、「俳句は、客観の景色でも主観の感情でも、単純なる叙写の内部に広がっているものでなければならぬと思うのである。即ち句の表面は簡単な叙景叙事であるが、味えば味う程内部に複雑な光景なり感情なりが寓されているというような句がいいと思うのである」と述べている。これが客観写生の基本的考え方である。
 分かりやすく述べれば、事物を客観的に表現してはいるが、その後ろに奥深い主観が潜んでいるという句が客観写生の句であるということである。ここで言う事物には、植物や動物、季節の変化や人間の営みなどが含まれているのである。決して自然だけを対象としているわけではないということである。
この客観写生という考えは分かりやすいが、実際に詠むとなるとどうであろうか。対象を正確にあるいは的確に表現したからそれでいいという訳ではないのである。その背後に「奥深い主観」が隠れていなければならないということである。「奥深い主観」が隠れていない句は、ただの写生句、あるいはただごと句、些末句となる訳である。
 では、「奥深い主観」とは何であろう。自然の神秘や人間の真理、哲学などであろうか。なかなか大変なのである。そう簡単に「奥深い主観」を句に差し込むことは困難である。だが、よく考えてみると「奥深い主観」は比喩によってなされるということではなかろうか。それも暗喩である。これはまさしく前衛俳句の手法の一つでもある。前衛俳句は、表の意味と裏の意味があり、良質な前衛俳句はくっきりと二重構造になっていて分かりやすいのである。分かりにくい前衛俳句は駄作であると思う。出来が悪いから分かりにくいのである。難解派で難解であることを自慢している方がいるが、それほど才能がないことの証明ではなかろうか。しかし分かりにくいことをありがたがる人たちが結構存在するので、前衛俳句は生き残れるのである。 
 さて、客観写生と前衛俳句は、一面よく似ているということである。ということは、客観写生を詠める人は、前衛俳句も作れるということである。その代表的人物は、高浜虚子であろう。

去年今年貫く棒の如きもの      虚子

 これは客観写生の句ではなく、前衛俳句の一種である。「棒の如きもの」は何であるか、それぞれが考えなさい、ということである。これを考えさせることにより、奥深さがあるように感じさせるのである。恐らく本人もよく分からないのである。何となく何かがありそうだということで作成した句である。これは何ですか、と尋ねられても本人はとぼけるだけであろう。
 高浜虚子は偉大な俳人だったかも知れないのである。詠み口が広く、また適当に理論を展開し、実践しているのである。この適当ということが重要である。適当に実行することにより、いろいろな傾向の句を詠むことができたのではなかろうか。「適当に詠む」ということは、決して非難しているのではない。理論ばかり追求していると、硬直した人間味のない句ばかりができるのではなかろうか。理論は所詮理論であり、そこに人間性がなければほんとうの意味での「奥深い主観」を織り込むことは難しいのではなかろうか。

                                            2007.10.29