器用貧乏
俳人の中に、「私は写実でも心象でも、どんな句でも作れる」と豪語する人がたまにいる。たしかに自由に句が作れるのである。句座でも高い点数を取っている。しかし、句友にはあまり信頼されていないのである。それは何故であろう。
俳句に確固とした信念がないからである。自由きままで、ぐらぐら揺らいでいるからである。その人の主張もふらふらしているのである。やはり俳句を詠むには、基盤が必要である。今日は写生、明日は心象、明後日は英語俳句ではコウモリ以上の存在である。このような方は俳句界では大成しないであろう。俳句界は同じような傾向の句を詠む人々が集まって結社を作っているのである。その組織の中に入ることはできても、結社内で出世することはなかなか困難であろう。しかし、小説のような幅広い感覚が受け入れられる世界では大成するかも知れない。小説の場合、組織よりも一人の才能である。才能とある程度の運さえあれば何とかなるのである。
俳句は才能と人間性である。人を惹きつける魅力と社会性がなければ大成しないであろう。俳句向きの才覚があるのである。自分はどうかを考えるべきである。仮に才能があっても、主宰者向きか、取り巻き向きか、高弟向きか、黒幕向きか、パトロン向きかを考えるべきである。だが、待てよ。考える必要はないのかも知れない。よく考えれば実に余計なことである。自然に任せればよいことであった。
2007.12.28