名句の発見
まだ発見されていない名句は数多く存在するであろう。しかし、である。有名な俳人によって発見されれば名句が名句として残るであろうが、一般の俳人が偶然にも発見したらどうなのだろう。それは秀句として句友などから賞賛されるであろう。しかし、それでほとんどお終いである。名句としては残らないのである。それは歴史が証明しているのである。一般の俳人でも何十年も熱心に俳句を詠んでいると、秀句は十年に一つくらいは詠めるのである。でもそれだけなのである。
だが、有名な俳人が名句を発見すると、その句は永遠に残る権利が与えられるのである。恐らく名句も有名な俳人に発見されることを願っているのである。
さて、ここで疑問をもつ方がいるであろう。「名句の発見」とは、どういうことなのかと。私は思うのである。特に写生句の場合、一つの対象についての句の名句はいくつか存在しているのではないかということである。桐一葉の場合、次の名句があげられる。
桐一葉日当りながら落ちにけり 高浜虚子
だが、桐一葉に関する名句は、まだ他にもあるように思うのである。次に誰が発見するかである。だが、名句はなかなか発見されないであろう。才能の豊かな俳人が発見する確率は高いのであるが、多くの、それなりの才能のある俳人たちが発見する可能性も低くはないのである。桐一葉は願うであろう。高浜虚子のような大俳人に発見されることを。そして名句として後生に残ることを、である。
2007.10.27