十七文字の影
文章の行間を読む、という言葉がある。文章に書かれていない部分を読みとる、ということであるが、俳句ではどうであろう。
俳句には当然として行間がないのである。あるのは十七文字の影だけである。であるから、詩的に表現すればその影を読み取る、ということである。影は長い方が良いのである。影が長いということは文字が大きく立っているということである。文字が立っているということは、俳句の存在が大きくて深いということである。そのような句は秀句か名句である。俳句は立ち上がる文学なのである。自立する文学なのである。大きな海に浮かぶ小島と比喩ってもよいであろう。であるから、小島は小島であるので、一人しか住めないのである。よって、俳句は一人の文学なのである。二人称や三人称では詠むことができないのである。また詠んではいけないのである。だが句座というものがある。これは自分の存在意義を確認するための小社会である。一人一人はつながっているが、俳句はつながっていないのである。勝手に人間がつながっているだけのことである。俳句は常に立っているのである。「立て万国の何々」と言う文句があったが、結束はしないのである。「俺が立つ、俺が立つ」、の世界である。
であるから強いのである。短歌のようにめそめそ泣いていないのである。演歌のように、「私は酒場の片隅で泣いています」、などとは決していわないのである。そして芭蕉のように、勝手に旅に出かけるのである。そして野たれ死してしまう俳句もあるのである。もしかしたら、ほとんどかそうなのかも知れない。よって俳句は「野たれ死の文学」ともいえるのである。第二芸術といわれている月並俳句はみなそうである。
さて、ここまで書いてきて、これはどうも俳論ではないと思うのである。では何かというと、全部比喩で述べた俳句の真実の姿である。俳句は詩である。時にはこのように表現してあげることも大切である。決してシュール批評という訳ではないのである。
2007.10.20