二句一章の分類
二句一章とは大須賀乙字が提唱したものであり、俳句の中に句切れを入れて季語を含む部分とそれ以外の部分に分けると、二つの概念が融合して一章を形成するという考え方である。
似た概念として「取り合わせ」という考え方もある。俳句の基本形式でもあるが、この捉え方に混乱があるのではないかと依然から考えていた。どうも一句一章の形式の句も二句一章に入れている場合もあるようである。そこでの二句一章をさらに細かく分析してみるこことする。私は二つの物の位置により二つに分類されると考える。
一つ目は、一つの場面(空間)に二つの物が同じ程度の影響力を持った存在としてある場合である。想像としての視覚においても確認できる位置にあるものである。これを「同一場面の二句一章」とする。これは一般的な二句一章の句であり、数も多い。
二つ目は、同じ場面(空間)に存在しないが、二つの物が同じ程度の影響力を持った存在としてある場合である。これを「異場面の二句一章」とする。これは数が少ないであろう。この二つの二句一章の句をいくつか出してみよう。
異場面の二句一章
降る雪や明治は遠くなりにけり 中村草田男
万緑や死は一弾を以て足る 上田五千石
曼珠沙華どれも腹出し秩父の子 金子兜太
同一場面の二句一章
夏の河赤き鉄鎖のはし浸る 山口誓子
神田川祭の中を流れけり 久保田万太郎
くもの絲一すぢよぎる百合の前 高野素十
草田男の句は、「降る雪」と「明治の記憶」との二物が存在している。降る雪は実景であるが、明治の記憶は作者の想像である。よって同一の場面にあるということではなく、強い関係があるという訳ではない。 この二つは独立しているのである。だがその二つが対比され強く響きあっているのである。このような句こそが純粋二句一章の句である。よく私は「降る雪」の句を例に出して説を述べる事が多いが、この句はまさしく名句である。理論を展開する上においても重要な句である。
五千石の句は、「万緑」と「死の一弾」とが対比されている。 この二つが実際に同じ場面にあるという訳ではなく、万緑を見ながら死の一弾を想像しているのであり、二つは互いに独立し、強く響きあっているのである。
兜太の句は「曼珠沙華」と「腹出しの秩父の子」とが対比されている。秩父の子の周りにその花が咲いているということではあるまい。前衛派といわれた兜太がそんな作り方をするはずもなく、この二つは互いに独立し、強く響きあっているのである。
誓子の句は「夏の河」に「赤く錆び付いた鎖」が浸っているのである。この二物は同一の場面に存在し、また触れ合っているのである。視覚で確認できるのである。よって同一場面の二句一章の句である。
万太郎の句は「神田川」が「祭」の中を流れているのである。二物が一つの空間の中にあるのである。よってこれと同様である。
素十の句は「蜘蛛の糸」が「百合の前」にすっと伸びていたというのである。この二つも視覚で同一場面にあるものとして確認できるのである
このように二句一章を二つに分類できると考える。
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