季語二つの論
一つの句に一つの季語が一般的である。季語が二つある場合、「あれ?
季語が二つ入ってますよ。勘違いしましたね。」などと笑いをもって指摘される。では、なぜ一つの句に二つの季語があってはならないのであろう。これを禁じる理由は何であろう。私はこの理由を今までまともに聞いたことがない。とにかく「禁じ手」ということである。
ではなぜであろう。季節感が強まり過ぎるのであろうか? それとも季語がぶつかりあって不調和音を奏でるのであろうか? また本当にそんなことがあるのだろうか? 感覚の世界のことであるので、明確に分からないのである。よって実験句を作る必要がある。なお、季語は同一の季節とする。秋の季語と春の季語とを一緒にしては常識的に拙いからである。
○満月や薄ヶ原の上にあり
○秋桜やコオロギ一つ啼いてをり
○向日葵や麦藁帽子一つ過ぐ
○噴水の上を夏雲二つ三つ
○無花果の隣に柿の置かれあり
○プール面に無数のアメンボ泳ぎをり
○夏日かな無数のアメンボ泳ぎゐる
○汗かいてビール飲んでる昼下り
○夏木立バナナ食べゐる童かな
○黒揚羽紋白蝶と絡みつつ
○甲虫鍬形虫と密を吸ひ
○蟻地獄蟻がもうすぐ落ちさうな
○蜘蛛の巣に紋白蝶の無惨かな
○紫陽花の大きな葉つぱ蝸牛
○登山口鉄線あまた絡まれり
○キャンプの火我の羽根燃えて消えにけり
○菖蒲咲き杜若咲く湖畔かな
○水馬口にボウフラ銜へをり
○夏の水集まり滝となりにけり
○睡蓮に乗つかつてゐる青蛙
○夏木立汗の流れてをりにけり
○若葉より青葉に移る木立かな
○グラサンを掛けて寝そべるビキニかな
○サクランボの種を飛ばすや桜桃忌
○甲虫クワガタ虫を投げ飛ばし
○冬の月鮟鱇深く沈みをり
○雪達磨吹雪の中に二つ三つ
○露の玉椿の実より二つ三つ
○クリスマス眼鏡に雪の貼りつけり
○クリスマスサンタクルスは現れず
○散る梅と咲き始めたる桜かな
○猫柳の下に蕗の薹三つ四つ
○油蝉の中をヒグラシ啼いてゐる
○葡萄梨林檎石榴と籠の中
○夏の山登山の男手を振れり
○朝露を脚に付けゐる飛蝗かな
○池に張る氷の上や霰降る
○しんしんと雪降つてをり山眠る
○一枚の新雪敷かれ山眠る
○蟋蟀鈴虫松虫啼く夜かな
○夕焼や噴水の周り誰もゐず
○蝉時雨アメンボ静かに散らばれり
○熱帯夜を蠢くものや油虫
○鬼蜻蜒夕焼けの露地曲がりたり
うーん、なかなか下手な句ではある。下手であるか故に説得力も乏しい。しかしそれはともかくなのである。季語二つの句はほとんど見ることがないので、その面では新鮮である。また作ろうとする作者の意識も新しく感じられるのである。この分野は探ってみる価値はありそうである。全くの駄作ばかりではないような気もする。才能次第である。これを良しとすれば俳句の領域は確実に広がるであろう。今までの常識を疑う処から新しい感覚は生まれると思うのである。疑いを持たない俳人は多く、特に長年やっている方は自分の俳句姿勢に疑いというものを全く抱かないのである。これは恐ろしいことである。
さて、季語三つはどうであろう。籠の中に季節のくだものを投げ込めばできるであろう。しかし、これは少し難しいかも知れない。
2005・10・3
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