連句の文学としての可能性
連句とは、まず「五七五」の発句(長句)があり、それに「七七」の短句を次の人がつなげるのである。それからまた「五七五」「七七」とつなげ、次々に続いていくのである。
この連句は明治になってから急速に廃れてしまい、現在ではほとんど取り組む人がいなくなってしまったのである。子規が連句の文学的価値をあまり認めなかったこともあろうが、実際の理由は何であろう。
それは、連句は一人の文学ではないということが理由の一つとして上げられよう。現在の文学は一人の創作である。複数の創作文学は基本的には認められていないのである。
もう一つの理由として、複数の人で作成した場合、俳句に深まりが見られず、所詮遊びの数珠つなぎの句としての存在でしかないということが考えられる。実際、江戸時代の連句には後生に残るほどの連句が存在していないのである。
連句を行う場合、文学的価値が重要である。これがなければ所詮言葉遊びである。作っては消えゆく文字でしかないのである。価値のある連句を作ろうとする場合、適当に弟子を集めて行っても無理である。優秀な弟子を少人数集めるのである。少数精鋭である。五人程度が良いのではなかろうかと思う。「連句集五人組」である。それから、範囲を「写生」とか「写実」に限定した方が良いであろう。何でも良しでは収集が付かなくなるであろう。そして、「春の部の連句」という風に季節も限定した方が風情のある連句ができるであろう。また、無制限の連句ではなく、39句程度に限定した方が良いであろう。長くなると底の浅い連句になるような気がするのである。
他に連句の形式として、一人連句が考えられる。私はこの方が文学的価値の高いものができると確信する。一人の感性で一人の世界を作り上げるのである。より深みのある連句世界が構築できるであろう。私はこれが連句の未来の可能性であると考えるのである。複数は所詮、仲間の連帯意識としての深まりはあろうが、お互いの感性のぶつかり合いにより、一つの連句世界の深まりは困難であろう。一人連句、これならば句集も出版しても恥ずかしくないであろう。俳句ではなく、連句である。新しい文学といっても良いのかも知れないのである。
2007.9.24