連作俳句
「ホトトギス」同人であった日野草城は、昭和9年の『俳句研究』において、新婚初夜を連作俳句として「ミヤコホテル」を発表した。その内容はフィクションだったといわれているが、ミヤコホテル論争が起きたのである。
けふよりの妻(め)と来て泊(は)つる宵の春
夜半の春なほ処女なる妻と居りぬ
枕辺の春の灯(ともし)は妻が消しぬ
をみなとはかかるものかも春の闇
バラ匂ふはじめての夜のしらみつつ
妻の額に春の曙はやかりき
うららかな朝のトーストはづかしく
湯あがりの素顔したしく春の昼
永き日や相触れし手は触れしまま
失ひしものを憶へり花ぐもり
これらの句を読んで、まず最初に感じたことは、俳句は恋愛には向いていないということである。恋愛を詠むなら短歌の方がずっと優れた形式である。短歌は恋愛感情そのものを素直に詠むことができるのである。
俳句には季語が必要である。だが恋愛感情に季語は不要である。無理に季語を付けている感じがするのである。余計なことである。恋愛にとって季節などはどうでもよいのである。二人の感情の高まりが重要なのであり、それを率直に詠めばよい訳である。
また俳句は大人文学といわれており、余計な部分を省略するのである。恋愛感情など省略の対象である。大人の文学は抒情しないのが普通である。
よって、俳句で恋愛に俳句は似合わないのである。それを連作俳句にしたことに問題があるのである。日野草城ほどの才能でも、すばらしい恋愛句は詠めないのである。これは本人の問題ではなく、俳句の形式の問題なのである。それが証拠に恋愛句を詠む俳人が歌人ほどには出現していないのである。ほんとんどいないといってもよいくらいである。俳句に恋愛が向いているなら今までもっと名句がたくさんあったであろう。恋愛句の名句が私には思い出せないのである。連作俳句ではもっとあり得ないであろう。
ではどのような対象が連作俳句として向いているのであろうか。基本的に短歌ほどには向いていないように思うが、旅の連作俳句であろうか。芭蕉も旅俳句を詠んでいるのである。しかし、連続性はそれほどないであろう。やはり俳句は独立の、大人の文学なのである。一句一句がそれぞれ独立して存在しているのである。短歌のように他の句にもたれかからないのである。連続しにくいのである。めそめそしていないのである。
俳句は芭蕉の名句のように一つ一つが立ち上がって存在しているのである。立ち上がらぬ、あるいは立ち上がれぬ俳句は名句ではないのである。
2007.10.4