立派な俳人と俳論

 秀句をたくさん詠める俳人がいるのである。しかし、俳論を書かせるととてつもなく下手である。こういう俳人は結構多いのである。このタイプの俳人は感覚派であり、とてもよい感性をもった方である。しかし、論理的思考回路を発達させなかったのである。であるから、いい俳句は詠めても評論は無理なのである。これはこれでよいと思う。多くの句友がその俳人の才能を理解しておれば、よいのではあるまいか。尊敬もされるであろう。「俳論よりも俳句が重要」は当たり前として考えられているから、それでいいのである。しかし、その反対の場合は少し問題である。「ろくな句も詠めないくせに、立派なことばかり書きおって!」ということである。決して尊敬されないのである。要するに俳論は文学とは思われていないのである。人の嫌がることを書く奴ぐらいのものである。俳人の寄生虫ぐらいにしか考えられていないのかも知れないのである。
であるから俳論はほとほどにした方がいい、ということにはならないのである。それぞれが得意な分野で頑張ればいいのである。では私は俳句が苦手かというと、そうでもないだろうと思う次第である。勿論、これは主観である。

                                              2007.10.16