理論と実践
俳論を書いていると恐ろしいと思うことがある。その文章には俳句に関する知識や教養、書く際のくせ、性格などが自然と滲み出てくるのである。自分自身をさらし者にしているようなものである。批評が的確ならまだしも、方向ちがいのどんでもない間違いを犯していることもあるのである。句の解釈を間違えて批評したりすれば、相手に迷惑なだけでなく、愚か者のレッテルを貼られてしまうであろう。
批評は、読み手にも批評されているということである。でも楽しいのである。俳句の真理を追求するのは実作だけでなく、俳論作りも真理追究に役立つのである。たくさんの俳句を作り、そこから理論を導き出すという方法もあるが、俳論から理論を形成し、それに従って、俳句を実践するという方法も考えられるのである。方向は逆であるが、実作から理論の方が一般的であり、理論は従来ある理論でもよいである。新しい理論がそんなに簡単に見つかる筈もないからである。ホトトギスのように理論がしっかりしていると統一感のある句ができ、句集を出すにしてもすっきりとした安定感のあるものになるであろう。
しかし理論を意識していなくても、一般の俳人は同じような傾向の句ができるのである。対象を見て俳句を詠む人は、写生句ができるであろう。これが一般的な俳句である。基本理論を意識していなくても構わないのである。「見て作る」が基本理論である。当たり前ではないかという人もいるかも知れないが、基本理論とはそんなものである。基礎基本から小難しい理論が形成されるのである。理論は俳句作りの過程で自然に形成されるものかも知れない。それが一般的なのであろう。
2007.8.18