写実と心象の間その2
文学は、大きく分けると写実と心象がある。俳句でも正岡子規を代表とする写実派の大きな流れがあり、写実派と比べると小さい勢力ではあるが、心象派もある。写実、心象の意味は今更説明するまでもないが、写実は現実的・事実的作風であり、心象は前衛や暗喩のような空想の作風である。
この二つは反対勢力として存在していることが多く、お互いを否定した主張をしている。しかし、この中間は存在していないのであろうか。恐らく存在しているであろう。だが、どっちつかずなので、両方から相手にされていないのである。図で示そう。
この二つの間の領域には名前が明確についていないので、両方の名前から一字を取って写象と呼ぶこととする。さて、この写象の句とはどんなものなのだろう。あり得るようであり得ない句ということである。写実とはいえないが、心象ともいえないということである。なかなか難しいのである。
ちるさくら海あをければ海にちる 高屋窓秋
高屋窓秋は心象派の俳人であるが、この句は一見写実風である。あたかも海に向かって散っている桜が存在しそうである。だが、現実的にはこのような風景はないであろう。また、海が蒼いという理由で桜は海に散らないであろう。心の風景であろう。だが、形は写実として見えるのである。この世にあっても不思議な風景では決してないのである。何ともいえない風景なのである。中間の句と思うのである。
春の水とはぬれてゐるみづのこと 長谷川 櫂
長谷川櫂主宰は、新古典派ともいわれている俳人である。この句は初期の代表作の一つとして知られている。さて、この句の意味は一見当たり前のことである。しかし、夏の水、秋の水、冬の水などと比べると春の水はぬれている感じが強いのではないかということなのである。事実句ではあるが、感覚の句でもある。これも中間の句と思うのである。
このように中間の句にはなかなかいい句があるように感じるのである。両方から受け入れられることもあるのである。もちろんその反対もある。
この領域を意識して研究している方は少ないようである。この中間領域の俳人が少ないからだと思うのである。この領域はなかなか奥が深く、複雑なのである。やってみる価値は大いにあるであろう。
2008.4.19