子規の閃き
子規は発句と俳句と改めたが、これは一つの大きな閃きであった。発想であった。「俳句の独立」である。この時俳句は大地にしっかりと立ち上がったのである。
発句とは、俳諧の連歌(五七五の句・七七の句を繰り返してそれぞれの俳人が詠んでいく・連句ともいう)を巻くときの最初の句のことで、発句だけが独立しているということではないのである。俳諧は俳句仲間で作る文芸であり、合同文芸だったのである。それを子規は明確に否定し、個人の文学として独立させたのである。文学に合同という発想がそもそも文学ではないのである。文芸である。文学は個人の創作であり、小説でも短歌でもそうである。俳句だけが合同だったのである。それが「座の文芸」といわれる所以である。子規は連句を否定し、俳句を文学に位置づけたのである。これが偉いことなのである。この業績だけでも凄いと思うのである。子規は写生論を創造しただけでなく、近代俳句の創始者であり、芭蕉なみの俳聖であると私は考えているのである。虚子も偉かったが、子規の切り開いた道を広げただけのことなのである。何といっても道を切り開いた最初の子規が偉いのである。また今読むと少し物足りないと思われる俳論もいいのである。子規の姿勢から俳句には俳論がなければならないと思うのである。この二つあっての俳句文学のように思うのである。長谷川主宰は俳句だけでなく、俳論も重視している。恐らく俳論が大好きなのである。恐らく議論も大好きなのである。しかし議論を嫌がる風潮が俳壇全体にあり、サローン化してしまっているのである。文学の堕落である。だが文芸と考えれば隆盛なのであろう。これはこれで仕方ないのかも知れないのである。合掌
2008.1.13