俳句の新技巧
俳句は短い。よって類似句がよくできる。これはプロと呼ばれる俳人でも例外ではないのである。技巧も限られているからであろうか。さて、ここで私が考え出した(かも知れない)技巧を披露したい。私は出し惜しみする人間ではなく、技巧も共有すべきであると考える。簡単なコンピューターソフトなども開発することがあるが、私の場合はみんなオープンである。まあそんなことはどうでもいいことであるが、本題に戻そう。
俳句には季語がある。その季語が他の対象とどのような関係をもって、目立っているかに主眼が置かれている。つまり季語が主体だということである。実に当たり前のことである。この当たり前のことに疑問を抱くとどうなるであろうか。「馬鹿な」と思う方はマンネリズム候補生である。
さて例題である。
手花火や闇に広がり小宇宙 小山孝治
さて、ここに意図的に下手な句がある。季語は手花火であり、手花火が綺麗で目立っている。何と下手な例句と思われてしまうが、みんな大なり小なりこんなものである。手花火の秀句もこの範囲を出ていないと推測されるのである。ここで主体を闇に置くことにするとどうなるであろう。
手花火は闇に喰はれて仕舞ひけり 小山孝治
季語は手花火であっても、主体は手花火を取り巻く闇である。闇が手花火を喰っているのである。ここが新しいのである。つまり脇役を主体化するのである。これが新技巧である。ただこのような技巧句は過去にもあると推測されるのである。だがそれを技巧として意識していないのである。意識的に造り出すのである。一句だけでは説得力がないのでもう一つだそう。
松手入すつきり松の剪られけり 小山孝治
小学生が作りそうな句である。だが分かりやすい句である。もしかしたらとても当たり前すぎて誰も作らず、新しい句なのかもしれない。まあそんなことはないであろう。さて、本題に戻そう。松は手入れをされてすっきりと綺麗になっているのである。主体は松であり、秀句もこんなものである。
松手入見上げる空のすつきりと 小山孝治
これは松がすっきりとしていると言っているのではない。背景の空がすっきりとしていると言っているのである。松の姿が空をすっきりとさせているということである。主体が松にあるように見えて、空に主体が移行しているのである。
このように主体と客体を交代させることにより、新しい感覚の句ができる可能性が広まるということである。この技巧は応用がとてもよく利くので、やってみる価値はあると思う。
2008.9.6